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日本基督教団 札幌北光教会 日曜礼拝 木曜礼拝 牧師/指方信平、指方愛子

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■愛の完全としての「渇く」
十字架上の主イエスは「すべてのことが今や成し遂げられた」ことを悟って「渇く」と一言発せられました。それは、ご自分のなすべき業をすべて出しきった、献げきったという意味での「渇く」です。ベタニア村のマリアは、非常に高価なナルドの香油をすべて主のために使い果たしましたが、弟子の一人はその行為を「勿体ない」と諫めました。十字架上のイエスは、ナルドの香油ならぬご自身をすべて注ぎ出されました。「渇く」、それは神こそが、ご自身の愛を独り子において注ぎ出された、最後の一滴も残さず惜しまず絞り出した、その愛の「完全」を意味する言葉です。これを「勿体ない」と批難する者など一人もいなかったどころか、誰もこの十字架の出来事に込められている恵みに気付こうとしませんでした。理解者が誰もいない、人間の闇が極まっているそのところで、神の贖いの業は灯のように静かに輝いていたのです。

■「成し遂げられた」
空中ブランコで注目すべきは、飛び手ではなく、受け手だと言います。成功の秘訣は、飛び手は、受け手がしっかり受けとめてくれることを信じて、ただ両手を広げて飛ぶこと。飛び手が受け手の手を必死につかもうとすることは最悪なのです。信仰ということにも通じます。それは私たちが「つかもう」とか「つかめる」と考えたり、自分で成し遂げようとするものではありません。わたしたちというのは、自分の力や知恵では、結局なにも成し遂げられないまま、しかも終わるに終われないような仕方でさえ世を去っていかねばならない者であるかもしれません。何よりも、罪(背き)という点においては自分自身の経験では決して乗り越えられません。そこで十字架の主イエスの「成し遂げられた」との言葉を聴き取りたいと思います。本当に必要なことは、既に十字架において主が成し遂げて下さっているのです。私たちは、主にあって「成し遂げられた」と宣言された平安の中を生かされている。そのことを覚えて生き、死んでいくものでありたいと思います。

■ニコデモとヨセフ
主イエスの遺体を引き取り、埋葬したニコデモとアリマタヤのヨセフのことがそっと記されています。ここに主によって「成し遂げられた」と告げられた私たちの生き方が記されているのではないでしょか。ニコデモは最高法院の議員の一人、アリマタヤのヨセフはそれまで自分がイエスに従う者であることを隠していた人物です。ペトロたち主だった弟子たちは逃げる中、彼らは身の危険を顧みず姿を現しました。彼らはここで、ナルドの香油を注いだマリアと同じように、今、自分のなしうる、なすべき業を主に献げました。
アリマタヤのヨセフは自分がやがて葬られるはずであった園にある墓(「だれもまだ葬られたことのない新しい墓」41節)を主のために献げました。ニコデモは主の体に香料を塗りました。いずれも大変高価なものです。彼らが特別裕福だからそういうことができたということではありません。彼らは、ただ、自分のために用意していたものを主のために用いたのです。聖書は私たちに問いかけます。「あなたにもまた、主のためにまだ用いていない新しいもの、働きがあるのではないか?」「あなたにもまた、今、主のためにできることがないだろうか」
私たちはそこですぐに言ってしまいそうです。「今はとても忙しいから」「自分には能力がないから」。しかし、その言葉によって、自分に備えられている思いがけない恵みや喜びの機会、そして感謝の機会をみすみす見逃してしまっているのかもしれません。アリマタヤのヨセフが自分の新しい墓に主を納めたその働きは、思いがけず復活へとつながっていました。わたしたちそれぞれが、主のためにできることは何かを考えたいと思います。
教会の営みは、いつもそうした一人一人の「今、主のために自分ができること」によって成り立っています。おもだった人だけではない、主がここで、アリマタヤのヨセフ、ニコデモといういわば隠れた人をこそ用いられたということを重く受け止めたいと思います。
神様は石ころからでもアブラハムを起こすことができる方です。欠けだらけのものが、用いられていく、弱さの中にこそ主の御業が表されてくる、その恵みを互いに証ししあう2024年度としたいと願います。

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