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牧師 指方 信平(さしかた しんぺい)
牧師 指方 愛子(さしかた あいこ)
説教

「ナザレのイエス、ユダヤ人の王」
ピラトが書き、十字架上に掲げられたこの罪状書きについて、祭司長たちは「ユダヤ人の王を自称した」と文言修正するよう注文を付けました。「ユダヤ人の王」とあるだけでは、ユダヤ人が本当にイエスを王と認めているかのような誤解を与えてしまいかねないからです。しかし、ピラトは「わたしが書いたものは、書いたままにしておけ」と彼らの要求を却下しました。ピラトなりの祭司長に対する反抗だったことでしょう。ピラトはイエスの釈放を試みましたが、彼らに完全に押し込まれてしまっていました。面目丸潰れにされたのです。自分のメンツを保つために、せめて罪状書きだけは自分の主張を貫こうとしたのです。あるいは「ユダヤ人の王」と記すことによって、逆に祭司長たちのメンツを傷つけようという意図もあったかもしれません。
総督としてのメンツを保とうとするピラト。しかし、彼が本当にすべきだったのは、このような罪状書きを書くことではなく、無罪を宣告してイエスを釈放することでした。しかし、彼は何が正しいことかではなく、何が自分にとって得であるかという打算で行動したのです。それは祭司長たちについても同じ。彼らは、目障りなイエスを反ローマの首謀者に仕立て上げて排除するという陰謀を企み、自分たちは今後もローマの権力の下で今の地位が保たれることを願ったのです。「あの男さえいなければ自分たちは安泰だろう」という打算です。ピラトも祭司たちも、己の利害やプライドのために行動しました。彼らは罪状書きの文言にばかりこだわり、イエスその方のことなど見ていません。そして、それは時の私たちの姿でもあるのです。打算的な生き方によって、十字架のイエスが見えていない。そこでいかなる神の御業が行われたのかを見ようとしていない。そんな人間の闇が極まっているそのところで、神の贖いの業が灯のように静かに輝いているのです。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」洗礼者ヨハネの声がここでこそ響いています。

■あなたの目の前に
「ああ、物分かりの悪いガラテヤの人たち、だれがあなたがたを惑わしたのか。目の前に、イエス・キリストが十字架につけられた姿ではっきり示されたではないか」(ガラテヤ3:1)。パウロはそうガラテヤの信徒たちに忠告しました。キリストの真実から離れてはならない、キリストの死を無意味なものにしてはならない、という思いからです。「あなたの目の前に」とは、それがあなたにとって決して避けることのできないもの、あなたという存在にとって絶対不可欠の現実であるということです。どこかの誰かの話ではなく、あなたに対する神の愛のリアルが今日あなたの目の前にあるではないか!ここにあなたの命にとっての光が輝いている、あなたの贖いが、神の愛がある。それを見よ!というのです。


罪状書きはヘブライ語、ラテン語、ギリシャ語で書かれました。それはつまりピラト自身が意図しない仕方で、すべての人に「イエスこそまことに王である」ということを証しすることになったということです。この罪状書きは不名誉なものであると同時に、「この方こそまことに王である」とすべての人に告げる福音でもあります。横暴な権力を振るって支配するようなこの世の王ではなく、すべての民のために命を献げて仕えられた王です。しかもこの方は、十字架で死んだ過去の王ではなく、死という絶対的な権力にも屈せず、復活して今日も明日も変わることなく生きておられる王です。「私が書いたものは、書いたままにしておけ」。ピラトが告げた言葉は、その通り今日、私たちの心の板に修正されることのない恵みとして書き記されているのです。

■十字架の下に生まれた神の家族
十字架上で主イエスは、母マリアとそのそばにいた弟子とを見て告げました。「婦人よ、御覧なさい。あなたの子です」、「見なさい。あなたの母です」。カナでの婚宴の時、イエスは母マリアに告げました。「婦人よ。わたしとどんな関わりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません」(2:4)。マリアにとって不可解だったあの時の言葉の意味が、今この十字架に至って明らかにされたのではないでしょうか。「婦人よ、御覧なさい、あなたの子です」「見なさい、あなたの母です」。マリアとイエスという地上の肉の家族はここで引き裂かれますが、この十字架の下で、キリストによる贖いの下で、肉によらない神の家族が新たに生まれているのです。それこそがマリアと主イエスの本当の関わりであり、イエスが言われた「わたしの時」なのです。
礼拝堂において、十字架を前にして集まる私たちも、主イエスの言葉を聞いているのです。「見なさいあなたの母です。見なさいあなたの子です」。お互いが、十字架のもとで神の限りない愛と赦しのもとで、喜びも、悲しみも共に担って生きる神の家族であることを示されています。
神は、人間が罪の中に酔いしれて鈍感になっているような時に、最上のぶどう酒、とっておきのぶどう酒としてのイエス・キリストを惜しまず与えてくださいました。十字架の出来事に秘められた恵みに人間が鈍感で気付かずとも、神はそこで世に対する愛を表わして下さいました。その恵みに等しく与っている者として、互いを祝福し、互いに仕えて歩みたい。そこにカナの婚宴にまさる神の国の祝宴があるのです。

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