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日本基督教団 札幌北光教会 日曜礼拝 木曜礼拝 牧師/指方信平、指方愛子

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■礼拝に生きる
自分が生きる上で何が第一であるのか、礼拝はその人の姿勢をはっきり証ししていることでしょう。また、わたしたちは日曜日の礼拝に集まるということを通して、人間にとって重要ことを世に証ししているのです。礼拝を「献げる」と申します。私たちは自分に与えられる日々の中で、この日この時を取り分けて主に「献げる」のです。そうして自分を主に献げるということです。命と人生の主を覚え、この方の愛と祝福と赦しに生かされ、主のものとされた自分をもう一度取り戻し、新たに歩み出していくのです。
この営みを抜かしては、まるで土台の無い家を築くようなもの。それは全く危険なこととさえ言えるかもしれません。やむを得ず礼拝に出席できない状況に置かれている方もいらっしゃいます。しかし、同じ時、祈りを合わせておられる、何より神がその方の名も御心に留めて下さっている、その事を覚えて私たちはこの方々のために祈るのです。そこに教会はある、主の交わりはあるのです。

■大宴会のたとえ
「食事を共にしていた客の一人は、これを聞いてイエスに、『神の国で食事をする人は、なんと幸いなことでしょう』と言った」。主イエスは、この言葉に彼の思い上がりを見て取りました。すなわち、この人は「神の国で食事をする幸い人」とは自分のことだと言っている。「自分こそ、神の国に招かれるに相応しい」と。主イエスはその思い上がりが、決して「幸い」ではなく、どんなに哀しく「不幸」なことであるかを「大宴会のたとえ」によって語ったのです。
ある人が盛大な宴会を催して大勢の人々を招待したという話。宴会の準備が整い、主人は僕を遣わして、事前に招待しておいた人々に用意ができたことを伝えさせました。主人は招いた一人一人の名前と顔を思い、心躍らせて待っていたのでしょう。ところが、招待客たちは何かしら理由をつけて次々と欠席の返事をしました。これはイスラエルの背きの歴史です。主人によって遣わされ、主人の言葉を人々に伝えた僕、それは旧約の預言者たちです。しかし、人々は拒絶し、神に背を向けた。たとえの中で、人々は畑や牛や妻を理由に、どうも簡単に断っている印象があります。そこに彼らの「今回断っても次があるだろう」「自分は招かれて当然の者なのだから」という驕りが見て取れます。
主人は僕に言いました。「急いで町の広場や路地へ出て行き、貧しい人、足の不自由な人、体の不自由な人、目の見えない人をここに連れてきなさい。…行っておくが、あの招かれた人たちの中で、わたしの食事を味わう者は一人もいない」。
厳しいたとえ話です。思い上がる者は、その思い上がりゆえに神の国の食事の招きを自ら断ってしまう。かえって彼らが「あいつらは神の招きから除外されている、神に裁かれた人々だ」と軽蔑していた人々こそが招かれたという話です。神の国では後の者が先に、先の者が後になる、高ぶるものは低くされ、へりくだる者は高められるという“逆転”が語られます。即ち、神の国に序列などないということ、ただ神の招きに応えたものがそこに入れられるということが強調されるのです。

■主の招き
主人は、「通りや小道に出て行って無理にでも連れてきなさい」「この家を一杯にしてくれ」と僕に命じました。それは招きに応える人をなんとしても探し求める主人の思いの強さです。「神の国の祝宴をあなたと共にしたい!」と。そのために町の広場にも、路地や小道にも遣わされた僕、それこそイエス・キリストです。
このたとえ話は、結局、宴会は満員御礼だったのか、ガラガラだったのか結末を語っていません。言い換えれば、神は今日も招きに応えるものを探し続けているということです。「あなた抜きでは祝宴は始まらない」と言わんかの如く、探しておられる。私たちはこれを他人事として読むことはできません。この一回の礼拝においても、主はそのようにして一人一人を招いておられるのです。その事実に私たちはともすれば当たり前になっている心を打ち砕かれ、新たにされたい。

■主の派遣
私たちはそうして主に招かれている者であると共に、ここから主によって遣わされていく者です。主イエスは「神の国が近づいた」ことを知らせるために72人を町や村に遣わしました(先週説教)。彼らはそのために主に選ばれ、用いられたのでした。それは今日の私たちの話です。教会が「キリストの体」として世に存在しているという信仰は、「キリストは今日このわたしをも用いて働かれる」ということです。この礼拝から出かけていく時、私たちは毎週派遣と祝祷の時に一つの主の言葉を聞いています。「あなたがたがわたしを選んだのではない、わたしがあなたがたを選んだ」と。私たちではなく、キリストがこのわたしを見出して下さった。天にわたしの名を記して下さった(天にわたしの名が、わたしにキリストの名が記された)。その恵みを深く心に留めると共に、主はこの私を選び用いて働かれるということを知りたい。私たちはキリストに招かれ、またキリストにあって遣わされて行くのです。

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