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日本基督教団 札幌北光教会 日曜礼拝 木曜礼拝 牧師/指方信平、指方愛子

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「ザアカイ」。彼は徴税人の頭でした。人々から徴収された人頭税や、物品・交通の関税の多くは、覇権を握るローマ帝国に吸い上げられました。その影で徴税人にはある程度の裁量が任されていましたから私腹を肥やすために不正な徴収が横行しました。ザアカイが金持ちであったのは、その辺りに理由がありそうです。ザアカイは、ユダヤ人の誇りを売り渡したローマ帝国の犬、守銭奴、イスラエルの恥、罪人だと、人々から嫌悪され陰口さていたことは想像に難くありません。

ある日、ザアカイの住むエリコの町にイエスがやってきました。イエスが他の町で行なった驚くべき奇跡の数々についての評判は、既にエリコの人々にも届いており、たちまち大勢の人々がイエスを一目見ようと黒山の人だかり。ザアカイもまたイエスという人に興味を持ちました。しかし、ザアカイの興味は他の人々とは異なり、イエスが他の町で自分と同じ徴税人と一緒に食事をしたということにあったかもしれません。誰も徴税人のような罪人と食事をしようと思う人などいないのですから。一体イエスとはどんな人なのか、ぜひこの目で確かめてみたい。彼はイエス一行が通る道を先回りして、いちじく桑の木によじ登りました。木登りする無様な様子を嘲笑う人々の目など憚らず、ザアカイは無我夢中で木の上に登り、群衆の中にいるイエスの姿を捜しました。

ところが、そこで驚くような逆転の出来事が起こるのです。イエスの方から彼に近づき、彼を見上げて呼び掛けたのです。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。」 ザアカイが一生懸命イエスを捜したようであって、実は、ザアカイの方こそ、イエスによって存在を知られ、捜されていた。ここで主イエスがいわれた「あなたの家に泊まりたい」。これはその場の思いつきの言葉ではありません。「今日は、あなたの家に泊まることにしている」という意味合いです。主イエスはザアカイと出会うためにこそこの町にやって来られたといって過言ではないのです。

つまり、この出会いは決してたまたまではなく、神の必然であるということが物語られています。このことは、わたしたちが教会に来ることと似ています。ザアカイが主イエスを見ようと木に登ったように、私たちは礼拝へと行くのです。しかし、実はそこで捜しだされ、呼び掛けられるのはわたしたちの方であるのです。今日「たまたま」というのではなく、神によってその名が呼ばれ、神のなんとしてもあなたを見つけ出そうという決意の内に招かれているのです。

「ザアカイは急いで降りて来て、喜んでイエスを迎え」(6節)ました。それは誰からも孤立し、失われ、埋もれ、渇き切っていた自分という存在が見出され、うるおされた喜びでした。それまではただ自分しか見えず、目先の欲求を貪るためにしか生きられなかった彼が、イエスによって生きるべき自分を取り戻し、生きる喜びへと解放されていったのです。

彼は徴税人です。町の人々は誰もがその罪深さを嫌悪していた。それなのに主イエスがよりによってザアカイの家に泊まったことは、人々の疑いと顰蹙を買ったでしょう。このことを共に喜ぼうと思える人はいなかった。なぜイエスは病人や貧しい人の所ではなく、ザアカイを訪ねたのか。あの者だけは相応しくないだろう、と。このように主イエスの歩まれる道というのは、当時の人々にも、そして今の私たちにもつまずきを与えるものです。そして、主イエスは人間が作り出す人と人との頑なな隔ての壁をことごとく乗り越えていかれます。

「ザアカイ」とは「義しい」という意味です。「神の前に正しくあれ」と、彼の親が願いそう名づけたのでしょう。その名が彼にとって現実との乖離を覚えさせるものであったでしょう。しかし、いま主イエスによって見出され、この方によって「義し」と肯定された自分を新たに歩み始めたのです。ザアカイは立ちあがって言いました。「財産の半分を貧しい人に施し、誰かから不正に徴税したお金については4倍にして返します」。「立ち上がった」、主イエスによって見出され、義とされた彼の新しい命の始まりを意味しています。

それからやがて、ザアカイは、あのイエスがエルサレムで十字架の上に挙げられ、人々の嘲りの中、罪人として処刑されたことを聞きました。しかし更に、全く不思議なことに、そのイエスが三日目に復活したという知らせも彼の耳に届いたのです。聖書にはそのような後日談はどこにも書かれていませんけれども、これは作り話ではありません。実にみなさん一人ひとりが今日ザアカイとして、ここで、主イエスの死と復活の知らせを耳にしたのです。このわたしを見出し、肯定し、受け入れて下さった方が十字架で死なれ、そして復活された。

ザアカイはその知らせを決して他人事として聞くことはできませんでした。あの日、いちじくの木の上に登り、町の人々から嘲られていた自分の姿と、十字架の上に架けられ人々から嘲られた主イエスの姿が重なったことでしょう。主イエスと共に過ごしたのはたった一晩、最初で最後だったかもしれませんが、その夜ザアカイは死んで、新たに生きる者とされたのでした。いちじくの木から降り新たに生き始めた自分と、十字架の木の上で死なれたイエス、そこに不思議な交換が起きていたことを知ったでしょう。そして、ザアカイはその後も、「今日はぜひあなたの家に泊まりたい」と呼び掛ける復活の主イエスを宿して、共に歩み続けたのです。

「今日、救いがこの家を訪れた」。わたしたち皆が主との出会い(あるいは再会)に招かれているということ、私たちを新たに生かす主のこの宣言を受けているということを思います。

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