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マタイによる福音書の第5章から第7章にかけての「山上の説教」と第10章の「弟子たちの派遣」との間に挟まれる第8章・第9章は、「癒し」を中心とした、言わば「行動する主イエス」が描かれている箇所です。とりわけその最初の「重い皮膚病を患っている人」の癒しの出来事を通して、重い病のために傷みを負わされた一人の人と出会われる主イエスの思いと行為を見つめましょう。

当時、重い皮膚病を患った人は罪ある者・汚れた者とみなされ、律法の規定のもとで社会から隔離・排除され、その人間性までも否定される扱いを受けていました。患者は病気による肉体的苦痛に加えて、人々から侮蔑・差別されるなどの二重三重の苦しみを背負わされていたのです。旧約聖書・レビ記13章の規定によれば、重い皮膚病であることを祭司によって「認定」されれば、患者は自分のことを周囲に向かって「わたしは汚れた者です。汚れた者です」と呼ばわれねばならず、独りで宿営の外に住まねばならないとあります。日本においても特定の病気を指定してその撲滅運動と称して法律を設け、多くの人たちを療養という名目で隔離し、人権を奪いました。これは決して過去の出来事として済まされるものではありません。現代においてもいつでもどこにおいてでも起こり得る(すでに起こっている)差別の現実です。

重い病人と主イエスとの出会いの記事は聖書に数多く記されていますが、主イエスの活動の始めにまずこの「重い皮膚病」を患った人の癒しの出来事があったというのは注目すべきことです。第8章・第9章に記されている一連の奇跡物語の筆頭に置かれているのです。「行動する主イエス」が描かれている箇所と述べましたが、それは言わば「御言葉を行う」主イエスの記事です。言い換えれば「神の意志を行う(実現させる)」主イエスです。神の言葉には主イエスの行動が伴っているのです。重い皮膚病を患っているこの人は主イエスに癒しの意志を求め、行いを願い出ます。「主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」・・・・・・・・これを丁寧に訳せば「もしあなたが意志さえしてくだされば、わたしを清くすることがおできになります」です。「主よ、意志さえしてくだされば」という切実な心からの求めを、主イエスは決して聞き逃されません。多くの人々が彼を(声だけでなく存在さえも)無視するなかで、主イエスのみが深くその声を聴き、深く関わろうとされるのです。この病人は主イエスに信頼して、まだ実現していない癒しを、必ず自分の身に起こるに違いないと信じて求めています。そして主イエスはまさにその期待に断固として応えるのです。それこそが主イエスの「意志」なのです。主イエスにとって、大勢の中の一人・・・・・・主イエスの意志を信じて求めるたった一人が際立った存在なのです。

主イエスの愛に倣うわたしたちであろうとするなら、この視点を決して失ってはなりません。すなわち必要なのは、「一人」の、「たった一人」の傷みの声を聞き逃さない感性であり、想像力であり、「意志」です。傷みを感じないということは痛めつけるということだからです。

聖書の時代、無知・偏見・先入観・迷信・社会的慣習によって、社会から誰かが排除される時代、これは今のわたしたちの社会そのものが抱える現実に通じています。もしもそのような(このような)社会でなければ命を脅かされることなく営み続けられるであろう一人ひとりの生活に思いを寄せ、一人ひとりに関わる「意志」を持つことによってのみわたしたちは主イエスの行動に連なるものとされます。日常の生活を、人として生きる当たり前の暮らしを奪われるような状況が「たった一人」にでさえも生じるとき、その社会を平和と言ってはならない。主イエスはこのことを強烈にわたしたちに訴えかけておられます。

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