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日本基督教団 札幌北光教会 日曜礼拝 木曜礼拝 牧師/指方信平、指方愛子

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■光あれ
「わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打倒されても滅ぼされない。わたしたちは、いつもイエスの死を体にまとっています、イエスの命がこの体に現れるために」
パウロの信仰の真髄というべきものが言い表されている言葉だと思います。これは決して、苦しまない、途方に暮れないと強がりや自惚れを言っているのではありません。「四方から苦しめられても行き詰まらず」、苦しさは四方八方にあるのです。途方に暮れることも、虐げられることや打倒されることすらあるのです。しかし、それで全くもって行き詰まり、失望し、見捨てられ、滅ぼされるのではないというのです。「もうこれで終わりではないのか」「これが一切の答えではないのか」と嘆かずにおれない苦しみ、悲しみの闇の中で、なお「光あれ」と告げる神の声が聴こえ、心が照らされるというのです。

■イエスを身にまとう
「わたしたちは、いつもイエスの死を体にまとっている。イエスの命がこの体に現れるために」。
私たちは皆、服で自らを装っています。服やアクセサリーだけでなく、富や誇りや様々なものを身にまとっていることでしょう。創世記の中で、アダムとエバは自分たちが丸裸であることを知った時、咄嗟にいちじくの葉で身を装いました。それは自分たちが多くを持っているようで、実は「何一つ持たない者であるということを知った」ということであります。その事実を恥じ、耐えがたかった二人は身を隠しました。神は、そんな彼らに動物の皮で作った衣をまとわせてやったのでした(創世記3:21)。皮の衣ということは、そのために動物の命が犠牲となったということです。キリスト教は、ここに イエス・キリストを重ね合わせて読みました。実は何一つ持っていないわたしたち、ひとたび死ねば最初から無かったに等しいかのように空しくされるはずのこの身、しかし神は、キリストの十字架の犠牲の死という衣をまとわせてくださったのだ、と。何も持っていないわたしたちに、ただ一つ与えられている、そしてわたしというものを丸ごと包んでいる事実です。
イエス・キリストの死を衣としてまとっている。それは他でもなくイエス・キリストの復活という事実を纏っているということです。イエスが納められた墓の中には、イエスの体を包んでいたはずの亜麻布が置かれていました。イエスは死を脱ぎ捨てられた。墓の闇に光が差し込んだ時、死が空しくされた。死こそが死んだ。そのようにして神は、御自身の愛が絶対のものであり、永遠のものであること、わたしたちがこの愛を内に宿しているものであることをお示しになりました。
この事実こそ、何も持たない私たちに与えられた何にも優る宝、誰にも譲り渡してはならない宝です。反対に言えば、たとえこの世で何を持っていても、何を成し遂げても、この宝を内に持っていなければ空しいのです。
キリストの死を、そしてキリストの復活の命を身にまとっているということ、神の愛を内に宿しているということ、それはどこまでも目には見えないことです、しかし、だからこそそれは、決して奪い取ることのできない、過ぎ去ることのない永遠の事実です。今日、この逝去者記念礼拝において、写真を前にしながら、また天上の友たちの名を見つめながら、まことに記念すべきこと、目を注ぐべきことはこの一点でありましょう。

■永遠に目を注ぐ
わたしたちには、死の別れという経験があります。先週、水曜日にまた一人の兄弟を御許に送った寂しさ悲しさがあります。そして、やがてはわたしたち自身も世に分かれを告げる時が訪れることを知っています。けれども、イエス・キリストという私たちの内に満ち、また私たちを丸ごと覆う恵みのゆえに、死と別れにも、終わりではなく始まりを見つめていくことができるのです。
神はこの誰をも過去のものとはしておられません。この方々と共に礼拝を守り、賛美を捧げたその祈り、歌声も、神は過去のものとはされません。決して色褪せることはありません。その一つ一つを今日も受け止め、わたしたちの交わりに御手を置いて変わらぬ愛と祝福を注いでいてくださるのです。
ここに記された方々のお名前を記念する時、ここには記されていないけれども、確かにここにあるイエス・キリストの名を記念したいと思います。そして、なおこの地上に生かされてある私たちもまた、キリストにあって、日々新たに神の愛に生かされている者として、「だから、わたしは落胆しない」との信仰と希望とを表して、主の導きの中を進みたいと願います。

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