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1. 愛の反対は何かと尋ねられたら、どのようにお答えになるでしょうか。私がなるほどと頷くのは、愛の反対は無関心という答えです。あるいは、愛の反対は諦めだと言ってもいいかもしれません。無関心を繰り返した結果、諦めになってしまっている。そんな経験を年齢とともに身に染みて味わっています。最近もそう思わせられることがありました。ある北光会員の方とお話した時のことです。パンデミック後、人々の心身が傷ついている状態はとても深刻で、いまこそお互いへの配慮が欠かせない時ですと、その方は語ってくださいました。医療専門職の方の指摘でした。パンデミックは去ったとホッとしていた私は、私の隣人に対する無関心や諦めを恥じ入る思いでした。パンデミック後の今、私たちは教会員同士として、どのような事柄に関心を抱いているでしょうか。私は、私たちのお互いに対する愛の配慮に関心を新たにしたいと強く思っています。私は愛の配慮と申し上げましたが、それは単に心掛けるとか意識するという意味ではありません。どんなに短い言葉でも、たとえ細やかな行動でも、とにかく、具体的な言葉と行動をもって、お互いに愛の配慮を示しあうという意味です。

2.パンデミック後の北光教会にはすでに大切な取り組みが進んでいます。その一つが建物の補修事業でしょう。この事業には財政再建の取り組みが並行しています。これらの課題のために祈りと力を合わせているみなさん、また役員の方々には感謝のほかありません。それを承知であえて指摘します。教会とは、建物や財政への配慮とまったく同時に、隣人への愛の配慮と切り離して考えてはならない共同体です。教会の内容がそういうものです。教会とは、教会に集う私とあなたの絆そのものです。この点をパウロは明確に言い切っています。「1コリントス」第3章において、パウロは教会に集う人々こそ「神の建物」(1コリントス3:9)であり「神の宮」(3:16‐17)に他ならないと断言しています。だから、神の宮(建物)である教会のケアが大切にされるならば、それは同様に神の宮である人々へのケアを大切にすることでなければならないのです。これがパウロの福音的勧告です。さらに、パウロの強調する言葉のニュアンスからは、教会へのケアとは、先ず何よりも会員仲間へのケアであるとさえいえるでしょう。わたしは、それを具体的な言葉と行動をもって愛の配慮を互いに示しあうことと表現しています。その教会員同士の愛の配慮とは、実に明確な模範をもって私たちに示されています。

3. 愛の模範は次のように示されています。テサロニケ人への手紙(1)1章6節〜10節に目を向けましょう。ここでパウロの言葉のカギとなるのは6節の次の表現です。「わたしたちに倣う者、そして主に倣う者となり」。この言葉の語順はパウロのギリシャ語原文でも、文字通り、先ず「わたしたちに倣う者」と書きだされています。「わたしたち」とは言っていますが、ニュアンスとしてはパウロ自身のことでしょう。パウロはテサロニケ教会の人々に対して、先ずわたしに倣いなさいと書いたのです。自分を模範にしなさいと先ず書いてしまったところに、教会においては、私は使徒職を預かっているというパウロのプライドというか、自負心がかいま見えるようです。ところが、パウロはそれを語った直後に、あらためてある言葉をもって言い直しをしています。これもギリシャ語原文「カイ・トゥ・クリウー(και του Κυριου)」という言葉をそのままで訳せば、「そして、主に倣う者」という言葉です。この書き直しをめぐるパウロの心の動きこそ注目したいのです。パウロは使徒職の誇りをもって、わたしに倣いなさいと書いてみました。しかし、いささか自意識過剰だと気づいたのでしょうか。否、それ以上にある自覚に立ち帰ったというのが適切でしょう。パウロの立ち帰るべき自覚とは、「主に倣う者」となる、というところにありました。

4. パウロが、「主に倣う者」と、すぐさま認識を新たにして書き直したことに、わたしたちもまた思いをとどめたいと思います。じつにこのようなパウロの気づきこそ、私たち自身の歩みにおいても繰り返し立ち戻るべき信仰の原点ではないでしょうか。私たちは、教会の仲間として自分の担う役割や貢献に、何某か自負心をもって集っている一人一人です。それをお互いに認め合いつつ教会を支えているはずです。しかし、なお神の前には、先ずもってイエスを見つめイエスに倣うことによって、私たちは、歩みえてきたし、今も、これからも、イエスに倣うことによってそうありえるのだ、ということを心に刻まねばなりません。そこに教会に集う者の原点があります。パウロだけではなく、他の誰かでもなく、私たちが真に見習うべき模範は主イエスでなくてはなりません。パウロ自身も、その模範の原点に立ち戻って、彼自身を含めて「主に倣う者」であることをテサロニケ教会の人々に促したといえるでしょう。

5. 主イエスを模範に教会を形成し続ける共同体ゆえに、パウロは、8節以下に「主に倣う者」として歩むテサロニケ教会の人々に向かって語ります。8節「神に対するあなた方の信仰」、9節「偶像から神へと向き直る」、「生ける真実の神に仕える」というテサロニケ教会の人々の姿勢は、主イエスの模範をひたむきに真似る姿です。パウロは、それらをもって、異教的な古代ギリシャ都市でその地域社会を生きようとしたテサロニケ教会の人々に称賛と励ましを語っています。もとより、教会とはイエスを真似る生き方に努めようと志す人々が共に労を担う器です。それがパウロの確信だったと思います。

6.ふたたび、「主に倣う者」の模範を、私たち北光教会に即して考えてみましょう。建物や財政の再建、それと隣人に対するお互いの配慮とは、切り離せない一体の事柄です。財政再建は、私たち一人一人が受けとめる課題としては献金です。献金はキリスト者が教会を形成して以来、あらゆる時代において教会を支える一人一人の課題でした。それだけに、献金の呼びかけは配慮の必要な課題だったのです。信仰の名において献金を呼びかける時、それは正論であっても、その求めに重すぎる義務を感じて困惑する人々があることを見過ごしてはなりません。献げものの要求は、今日のカルト宗教の要求にも重なる危うい側面も持ち得ます。人々の現実の生活の必要を想像しない信仰の要求が人を苦しめるものになってはならない。苦しみを強いるだけになる信仰の要求は、真の福音的な勧めではありえません。行き過ぎた献金の要求は、福音的教会を求めた宗教改革の発端の一つにさえなりました。献金こそ、隣人に対する愛の配慮が具体的に試される試金石だといって良いでしょう。こういう自覚にたってこそ、回復期の教会が共に力を合わせることが可能になるはずです。たしかに財政の再建は急務で後回しはできないものです。それだけに、それはいつでも神の宮としての人間への配慮と共に担われてこそ、ほんとうに教会を支える両輪の力を発揮するのではないでしょうか。

7. かつてイエスに倣って生きようとする人々を「鉛筆」に例えた人がいます。マザー・テレサは、「私たちは神さまの小さな鉛筆です」と語ったことがありました。神さまの鉛筆は神の手に握られて、神の御旨に応えて、それぞれのやり方で何かを描き出します。マザーは彼女と共に宣教を担うシスターたちや協力者を念頭においていたのだと思います。様々な祈りと協力と貢献を感謝と謙遜をもって受けとめていた心が感じられます。私たちもまた神様の小さな鉛筆です。私はパンデミック後の課題をもって歩み出した北光教会について想像を広げてみました。神さまの鉛筆としての私たち一人一人は実に多種多様です。しかし、その多種多様な鉛筆は、主に倣うことを通じて神さまの小さな鉛筆の働きを担う。それぞれに主に倣って用いられ、そこに描き出される教会は、たんに外見が美しい建物ではない。その器の中にあふれるお互いの思いやりや支え合いこそが教会の真価を語るでしょう。その鉛筆によって描き出される教会に、人々が本物の自由と安らぎが見いだせると感じるかどうかが大切です。真に神さまの小さな鉛筆となりたいものです。一人一人がイエスに真似ることからその一歩が辿られていきます。Ω

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