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日本基督教団 札幌北光教会 日曜礼拝 木曜礼拝 牧師/指方信平、指方愛子

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■投じられる剣
「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ」。不可解かつショッキングな主イエスの発言は何を意図しているのでしょうか。
イエスの時代は、「ローマの平和/パックス・ロマーナ」と呼ばれる時代でした。しかし、この平和は、人々が権力に盾突かず穏便にしていることが前提です。実態は見せかけの「力による平和」「抑圧による平和」に他ならず、常に弱い立場の人や少数者に我慢や寛容さを強要し反発を押さえ込んできました。イエスは、見せかけの「平和」の中で、衝突を避け、辛抱し、穏便に過ごそうとは言いません。むしろ、そのような平和に対して、むしろ徹底的に闘うために剣を投じるために来たのだというのです。そして、本当の平和を「神の平和」を作り出していく人たちこそ幸いだと言われたのです。

■「家族」というものの利己性
「わたしは敵対させるために来たからである。人をその父に、娘を母に、嫁をしゅうとめに。こうして自分の家族の者が敵となる」。
イエスは、人々を目先の見せかけの平和に浸らせ、真の平和へと立ち上がる意欲を萎えさせ、問題意識を失わせ、無関心・無慈悲にさせていくその原因の最たるものとして「家族」を見ているのではないでしょうか。時に自分たち身内の利益や心地よさや体面のためならば、他人の身に起こる多少の不利益は構わない、と傍観する利己性、排他性。家族という単位が、排他的で利己的な社会を生み出す温床になっているとすれば、その家庭に剣が投げ込まれることもまた神の意志なのかも知れません。
これは血縁の家族だけの話ではないでしょう。教会もまた「神の家族」と表現することがあります。それは互いにキリストの恵みに与り、互いに愛し合い仕え合っていこうとする喜ばしい表現であります。しかし、教会がそのアットホームな雰囲気とは裏腹に、自己保存や利己主義、排他主義に陥り、そのために世の潮流に追従しているならば、主イエスの言葉は、そこにも剣となって投じられます。塔・外壁補修、教会の活動と交わりの回復、財政再建、いずれも先送りできない今の我々が担わなければならない現実の課題。だからこそ、そこで「教会とはどこを向いているのか、どこに向かっていくのか、主はどこを誰を指し示しておられるのか」を見つめ、私たち自身が新たにされていかなければならないでしょう。「教会は他者のために存在する時のみ教会である」とのボンヘッファーの言葉が想い起こされます。
「剣が投じられる」ということ、それはただ家族がいがみ合い、背を向け、分裂の一途をたどるということではなくて、主イエスの言葉と業によって、自分自身の内に潜んでいる利己性を明らかにされ、また自分自身の「隣人性」というものが目覚めさせられていくということではないでしょうか。そして、神の愛のもとで、人と人とが互いにまことに隣人として向かい合うことが促されているのです。
「隣人を自分のように愛しなさい」と主イエスは言われました。それは「隣人と自分との一体性」を意味しているでしょう。隣人に向かって出かけていこうとする時、出かけ続ける時、そこに「あなた自身」が見出されるのだと。そこであなたは「命を得るのだ」と。あるいは「隣人を自分のように愛しなさい」と告げられる時、それは主によって、自分が呼び出されている、必要とされている、そのようにも聞こえてきます。

■十字架という剣
家族の只中に、社会の只中に、教会の只中に剣は投じられます。それは十字架という名の剣です。この十字架が人間の利己的な排他的な現実を明らかとするのです。十字架がわたしたちの真ん中に打ちたてられる時、私たちはゴルゴタのあの場面の群衆となるのです。「十字架にかけよ」と罵りの声をあげ、一方的な正義によってのみ裁き、自分の平和だけに安住しようとしたあの群衆に、私たち自身の姿を見るのです。それと同時に、あの十字架において露わにされた私の罪がイエスによって担われ、赦されたという事実をも知らされるのです。このわたしがどんなに深く赦されたか、神がどんなに目を留めていて下さるか、その事実に目覚め、その事実によって立ちあがる時、「わたしに従え」と呼び掛ける主イエスの道が始まっていきます。
主イエスは37節で言われました。「わたしよりも父や母を愛するものは、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者もわたしにふさわしくない」。何にも勝って主イエスを愛することが求められています。それは言い換えれば、十字架における神の愛と赦しを、何事にも勝って確かなこととして信頼するということです。自分の親への愛にも勝って、子どもへの愛にも勝って、自分の財産、地位、学識そういったものへの愛にも勝って、十字架に示された主の愛の確かさに信頼し、この事実を身に帯び、主の愛に押し出されて生きるということです。そこにおいて、見せかけの力や抑圧による平和、閉鎖的で排他的な平和は断ち切られ、一人ひとりが隣人として互いに出会い、まことに命の喜びに溢れた平和が築かれていくのです。

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