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日本基督教団 札幌北光教会 日曜礼拝 木曜礼拝 牧師/指方信平、指方愛子

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■心が溢れて口から出てくる
「木が良ければその実も良いとし、木が悪ければその実も悪いとしなさい。木の良し悪しは、その結ぶ実で分かる」(33節)
主イエスがここで意識しているのは、御自分に敵意を燃やすファリサイ派の人々です。主イエスは、彼らの人を陥れよう、揚げ足を取ろうとする言葉の数々、その端々に、彼らの本性を見通しています。彼らがどんなに律法を振りかざし、どんなに義人ぶってみても、その言葉を聞けば、彼らが内心では自分の立場や利益のために心惹かれ、人々と自分自身を欺いていることが判るというのです。「人の口からは、心にあふれていることが出てくるのである」(34節)、心があふれることによって口から言葉が出てくる、このことはわたしたちにも心当たりのあることかもしれません。
私たちは時として、自分本位の心ない言葉を語ったり、大言壮語したり、中身の無いうわべだけの美辞麗句を並べたり、人気取りのための欺きの言葉や媚びへつらいの言葉を語ったりすることがあるかもしれません。口で神様を賛美したかと思えば、同じその舌で神に造られた人間を陰で呪う(ヤコブの手紙3:9)、二枚舌によって過ちを犯すといったことがあります。政治の世界を見ても、自分自身を見つめ直しても、思い当たる節というのは一つや二つではないかもしれません。これらの言葉は「うっかり」「たまたま」出てきてしまうものなのでしょうか。否、自分自身も気付いていない本性がそこに現れているのだということでしょう。もし人を傷つける不用意な言葉を語ってしまったとすれば、それは「語るべき言葉の用意がなかった」という単なる失言の問題ではなく、「そもそも愛がない」というその人の本性を表しているのかもしれません。
うわべだけの良い言葉や、正義の言葉がいくら溢れていても、それを発する心が自己本位な罪の現実に包まれている限り、それは決して他者を生かすもの、平和を創り出すものにはなっていかず、やがて互いに怒りを生み出し、裁き合う方向にしか向かっていかないことでしょう。
「言っておくが、人は自分の話したつまらない言葉についてもすべて、裁きの日には責任を問われる」(36節)。ある聖書学者は「つまらない言葉」とは、「愛の業を生み出すことがないような言葉のことである」と語っています。そして、その言葉について責任を問われるというのは、神はあなたの言葉を、あなたの本性を全てご存じであるということです。言い換えれば、あなたは神の御前でその言葉について申し開きすることができるのかという問いにもなるでしょう。
わたしたちは、主イエスからこのように言われると誰も言い返すことができないでしょう。人間というものは、もはや・・・原罪・・と言う・・・表現しか見つからないほど・・・・・・・・・・・・に自分本位な思いに縛られ、自分では解決不可能な現実を持っています。そのような人間がさも自分が真実であるかのごとく、正義であるかの如く人を裁く言葉を、主イエスは厳しく戒めるのです。

■キリストに接ぎ木されて
「隣人から受けた不正を赦せ、そうすればお前の罪は赦される。人が互いに怒りを抱きあっていながら、どうして主から癒しを期待できようか。」(旧約聖書続編 シラ書28:2-3)
神に赦しや癒しを求めながら、隣人に対しては憎み、つぶやき、憤っているならば、どうして主の癒しを期待できようか、と問いかけます。「あなたは神に身勝手な祈りをする前に、自分自身が隣人を赦し憐れむものでなければならない」ということです。私たちは神様に祈る時には、いつもそこで隣人の存在を示されているのです。そして、私たちの場合は、その真ん中にイエス・キリストが立って下さるのです。神への祈りの中で、自分がキリストの十字架のゆえに、神の真実な赦しに置かれているという恵みを知らされる、その恵みの中で隣人が示されるのです。
「木が悪ければ、その実も悪いとしなさい」「その実で木そのものが分かる」と主は言われました。自分自身にこれを置き換えると、如何ともしがたい現実が私にはあると愕然とします。しかし、神はそのような私をキリストという木(十字架)に“接ぎ木”してくださったのです。そうして主の真実な赦し、主の完全な愛に生かし、このわたしという枝も良い実を実らせるものとしてくださっているのです。これによって私たちは「つまらない言葉」ではなく、愛の業を生み出していく言葉を実らせていくことが出来るものとして生かされています。他者から奪い、他者を傷つける言葉ではなく、他者を生かし、他者と共に生きるための新しい言葉を実らせていくものとして生かされています。キリストに接ぎ木された者としての命を証ししていくものでありたいと思います

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