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日本基督教団 札幌北光教会 日曜礼拝 木曜礼拝 牧師/指方信平、指方愛子

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■「不正な管理人のたとえ」のテーマ
「あなたがたは神と富とに仕えることはできない」(13節)。神に仕えよと主イエスは求めます。しかし、富を一切無視して生きることはできません。その意味では、神か富かどちらか一つを選ぶことはできません。すると、人は神に仕えつつ、富をどう扱うべきなのかということが自ずと問題となってきます。それがこのたとえ話のテーマであります。

■「不正にまみれた富で友を作れ」
主人の財産を無駄遣いした管理人。解雇の危機に直面した時、彼は更なる不正を重ねました。
主人に借りのある人々の借用書を改ざんして借りを減らしてやり、自分が解雇される前に彼らに恩を売っておいたのでした。ところが、「主人は、この不正な管理人の抜け目のないやり方をほめた」(8節)のですから、全く不可解な展開です。そして、主イエスは弟子たちに言われました。「不正にまみれた富で友達を作りなさい。そうしておけば、金がなくなった時、あなたがたは永遠の住まいに迎え入れてもらえる」。
主イエスのこの言葉を、わたしたちはどう理解することができるのでしょうか。

■あなたもわたしも不正な管理人
わたしたちは皆、神様によって生かされている存在です。自分が持っていると思う知恵も健康も時間もお金も、あらゆる財産は神様によってもたらされたものです。それらを私たちは自分の必要に応じて用いながら生きています。自分や家族の生活のため、教育のため、老後のため等々、それこそ抜け目がないように。その意味で私たちは神の財産の管理人です。
ですが、果たしてわたしたちはこの財産を、100%御心に適う仕方で用いているでしょうか。いいえ、しばしば私たちは神様を忘れて、これらを用いています。「神はいなくても生きられるが、富がなければ生きられない」という倒錯を起こしてしまいます。その意味で私たちは誰もが「不正な管理人」として生きているのです。「不正な管理人」とは「罪ある人間」ということなのです。人は罪を犯しながらでなければ生きられません。どうしても神の御心に背いてしまうこのジレンマを自らでは克服できません。

■この罪の中で、友を作れ
でも、このたとえ話はどうたったでしょう。不正に不正を重ねた管理人のことを、主人は、「お前は解雇だ、こいつをひっとらえよ」と命じたでしょうか。そうではありません。かえって、彼が抜け目なく友を作ろうとしたことを褒めたのでした。この世的にはあるはずのないこと、あってはならないことでしょう。しかし、神は不正を(罪を)犯す私たちに退場を命じるのではなく、背きの罪を犯しながらでなければ生きられない私たちが、過ちを繰り返しながらも、自分に与えられている時と知恵と体と富とを用いて、友を作ることを求めておられるのです。「抜け目なく」とは、「心を尽くして、力を尽くして、時を尽くして」ということではないでしょうか。実際には、利己的なものを秘めていたり、つじつまが合わないこともあるでしょう。人から「あなたのしていることは偽善にすぎない」と指摘されることがあるでしょう。いろんなジレンマの中で、でも友を愛する、隣人を大切にするということに思いと力を注いでいく、それが不正な管理人としてのわたしたちの生き方であり、主人はそれを褒めて下さるというのです。

■わたしを友とされたイエス・キリスト
考えてみれば、主イエスという方は、罪人として裁かれ十字架の死に至りました。律法を破り「不正」を犯した、神に背き神を冒涜した罪人であるとされました。しかし、主イエスはたとえ律法を犯してでも、小さくされた一人に仕え、友になろうとされた。「抜け目なく」、すなわち心を尽くし、力を尽くし、時を尽くして友となられた。
私たちも主イエスによって友とされた一人一人です。主イエスは御自身の死をもって、わたしたちが神様に対して抱えていた、いや抱えきれないほどの負債を、書き換えてくださった、いや、帳消しとしてくださったのです。そのようにして主イエスはわたしたちいと小さきものを友とされた方です。それは全く抜け目のないやり方でした。主イエスはそれによって、すべてのものをご自分の友とされたからです。

■ごく小さな事に忠実に
そうして今日わたしはここに生きているのだ、ということを思いたい。そして、わたしたちも「不正な管理人」として、すなわち、過ちを繰り返す生き方の中でも、自分に託された時を、知恵を、体を、富を、用いて隣人に仕える、友として仕えていくこと(ごく些細だと思われることにおいても)、そこに神の喜ばれる、神に仕える生き方があるのだ、と招かれています。

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