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日本基督教団 札幌北光教会 日曜礼拝 木曜礼拝 牧師/指方信平、指方愛子

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■この場所で110年
いまから110年前に、教会はこの地を購入し、レンガ造りの会堂を献堂しました。先人たちの祈りと献身の業でした。現在、会堂の塔外壁補修工事が進められ、また第2次会堂改修事業もその道半ばにあります。先人たちの信仰を受け継ぎ、この土地と建物を大切に守り続けていくことは容易ではありませんが、今この時代に北光教会につながる私たちに託された大切な使命として、次世代への、また札幌市民へのわたしたちの信仰の証しとしましょう。教会にとって建物は手段であり目的そのものではありません。この場所で礼拝によって生きる群れを形作ること、神の生きたみ言葉と祝福を分かち合い共に生きる信仰の群れを作っていくこと、その目的を共に見つめつつ、ここからまた主に力づけられて歩んで参りたいと願います。

■聖書があるじゃないか。これに聞け。
生前、贅沢三昧に暮らした金持ちは陰府に下り、炎の中もだえ苦しむ身となりました。一方、金持ちの家の門前に横たわっていたラザロは、父祖アブラハムの隣で宴席に与っていました。金持ちはこの立場の逆転ぶりに愕然としながら、アブラハムに言いました。「私の父の家にラザロを遣わし、兄弟たちが私のようにこんな苦しい場所に来ることがないように、言い聞かせて下さい」。「自分はともかく、せめてまだ生きている兄弟たちは、自分と同じ目に遭って欲しくないので、そこにいるラザロを兄弟のところに遣わして、彼らによく言い聞かせて悔い改めさせて欲しい」という訳です。この切実な訴えに対しアブラハムは言うのです。「お前の兄弟にはモーセと預言者がいる。彼らに耳を傾けるが良い」(29節)。<モーセと預言者>とは、「モーセ五書」「預言書」のこと、つまり「(旧約)聖書」のことを指しています。つまり、アブラハムは「お前の兄弟たちには聖書があるではないか。聖書のみ言葉にこそ耳を傾けるが良い」と言ったのです。ところが、金持ちは「いいえ、父アブラハムよ、もし死んだ者の中から誰かが兄弟のところへ行ってやれば、悔い改めるでしょう」(30節)。金持ちは、自分の兄弟たちのことだから聖書の言葉を読んでも悔い改めるはずがないと考えたのです。金持ちは、「聖書の言葉などなんの力もない」と諦めているのです。それより、死んだラザロが目の前にワッと現れることの方がよほど効果的だと。
聖書のみ言葉に耳を傾けることなど「無意味だ」「何の助けにもならない」と侮る。み言葉が「我が道の灯火」であるどころか、マッチ一本にもならないと侮る。それよりも手近で手軽で即効性のある癒し、慰めを求めてしまう。これは私たちにも起こり得ることです。
しかし、その考えに対しアブラハムは「お前の兄弟には聖書があるじゃないか。これに聞け」というのです。アブラハムは、行先も知らないまま、ただ神の言葉を信じ、約束を信じて旅を始め、じっくりとみことばに踏み止まって生きた人です。そのアブラハムだからこそ、聖書の言葉を侮る金持ちに対して「それは違う、むしろ逆だ」と教えたのです。

■み言葉によって生きる
み言葉に耳を傾けること。札幌北光教会の127年の歩みは、折がよくとも悪くとも、この一点を土台として拠り所としてきたものです。そこには、つまずきも背きもあったかもしれない。しかし、だからこそ主のみ言葉に立ち返り、連れ戻され、歩んできたのです。このことは、これからも変わらないし、変わってはなりません。神様の言葉は「足りない」とか「小さくて聴こえない」というものではありません。神様は、イエス・キリストの生涯においてご自身の言葉を余すところなく語っておられます。キリストこそこの世において受肉した神の言葉です。十字架の死の後、墓の中に閉ざされ沈黙された方ではなく、これを克服して今日も生きておられる神の言葉です。そうして日々、私たちに対する愛を、赦しを、道を新たに告げておられる。決して欺くことのない真実をもって、主は聖書のみ言葉を通して私たちに語られるのです。
聖書のみ言葉に聴くことなしに、「主などいない」と失望することはおかしいのです。「み言葉なしでも自分は生きられる」と考えるほど危うい傲慢はないのです。世には溢れるほど多くの言葉があり、それらは日々枯れ、散り、移り変わっていきますが、私たちは、主の口から出る一つひとつの言葉によってこそ今日を生かされ、主が伴い、備えて下さる明日を見つめることができるのです。

■「ラザロ(主はわが助け)」として
礼拝は、この神のみ言葉によって、自分自身を神の前に位置付け直し、神の子としての祝福を携えて歩み出していく時です。コロナによって、礼拝堂に集えない時がありましたが、形はどうであれ礼拝を守り続けてきました。しかし、それは私たちが懸命に礼拝を守ったということ以上に、主が私たちにこの時こそみ言葉を語ることを止められなかったということです。「わたしは、最後まであなたを担い、背負い、救い出す」、その神様の真実に捕らえられ、導かれてきたのです。この主の御言葉は、ここからも私たちの行くべき道を、選び取るべき愛の道を灯火として照らし導いて下さいます。「ラザロ」、それは「主はわが助け」という意味です。「主はわが助け」、ラザロは、ただその希望の約束に耳を傾けた、存在すべてを主に注いでいたのではないでしょうか。主こそわが助け、わが光、そう信頼し、この方のみ言葉をこそ求め、現実を主の手から受け取って生きていく、わたしたちこそそのようにして今日を生きるラザロとして歩んでいきたいと願います。

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