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■「つまずきは避けられない。だが、それをもたらす者は不幸だ」
その人がその人であることの尊さを軽んじ、つまずきとなるものをわざと人の足もとに置くような人間は不幸だと主イエスは言われます。「首にひき臼を掛けられて海に投げ込まれてしまうほうがましだ」とさえ言うのです。それは、神がどれほどその人のことを尊び、愛し、喜んでおられるか、その事実をあなたは誰に対しても見つめ、「痛感」しなければならないということです。もし、その人に対する神の愛を痛感するならば、どうしてなおも人につまずきの石を置けるだろうか、そう問うているのです。
主イエスは、またつまずきを受けた側の人に対しても「赦す」ことを求めています。3節「あなたがたも気をつけなさい。もし兄弟が罪を犯したら戒めなさい。悔い改めたら赦してやりなさい。一日に七回罪を犯しても七回悔い改めますよいって来るなら、赦してやりなさい」。その人の犯した過ちを赦すこと。それもまた神がそのようにあなたのことを赦して下さる方であることを知るということです。

■信仰を増してください
こう教えられた時、12人の弟子たちは、たちまち自分たちの現実に愕然としたのかもしれません。5節「わたしどもの信仰を増して下さい!」。自分たちは互いにつまずかせ、それでいて赦し合うことも少ない、そんなことを思ったのではないでようか。そして、それは自分たちに信仰というものが決定的に足りていないことが原因だと。自分たちには愛が足りないから、「愛を増して下さい」といったのではありません。「信仰が足りない」、すなわち、神である方を意識することが少ないのです。すべて自分の価値観や先入観だけで人や物事を決めつけて、神という客観的な絶対的な視点から、相手のことを見ようとしていない。神はこの人にも愛をもって働き導いておられるという視点を持たずに、自分がつまずきとなってしまう。自分自身の人に対する愛のない、冷たい態度を振り返る時、神を忘れた自分がそこにいる。「これではまずい、今、ようやく目が覚めました。どうか信仰を増して下さい!」と願うのです。

■からしだね一粒の信仰があれば
主イエスの答えは意外です。山のように大きな信仰、海のように溢れる信仰というのではなく、むしろ「からし種一粒の信仰」です。「それだけで良い」と言っているのではなく、「それこそが大事」なのです。信仰とは、自分が光輝き、大きく、強く、誇り高くなることではありません。主イエスは、その逆を示されます。必要なことは、むしろ己の小ささ、無力さに留まり、自分自身の光を消すこと。そこでこそ鮮やかに神が見出されるのです。すべては自分ではなく神様の業であるということを知るのです。自分のわずかばかりの光ではなく、神の光に照らされて輝くのです。信仰者としての「成長」とは、増し加えられ大きくなっていくということではなく、むしろ余計なものが削ぎ落とされて、謙っていき、「からしだね一粒」になっていくこと。
弱さの中でこそ、無力さの中でこそ、何の誇るべきものも見当たらない「からし種一粒」だからこそ、すべてが神の業、神の愛によるものであることが分かってくる。どんなに自分が、そして他者が、神に愛され赦されて生かされているか。それは自分が大きくなって、自分自身を誇り、人を軽んじ、躓かせている限りはいつまでも見えてこない恵みです。
私たちは飼い葉桶に生まれ、十字架に向かって行かれたあのイエスの「弱さ」「無力さ」「貧しさ」の中に働く、鮮やかな、力強い神の御業を、揺るがぬ愛を見つめながら、神への「信」に生きる者のまことの強さを知るのです。

■すべては主の御業
「自分に命じられたことをみな果したら、『わたしどもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです』と言いなさい。」
自分の人生の最期に際して言うべき言葉は、「わたしはこれだけの沢山の働きをした!」「誰も真似できない偉業を自分は果たした!」ということではありません。満たされない思いで、自分を承認して欲しい一心で一生懸命訴える必要などないし、恐らくそれで本当に満たされることはないのです。人の前で誇っても、神の前に誇り得るものは何も持っていない私たち。その私が言うべきは、「私は与えられた務めをなしただけです」「為すべきことを為したのみです」ということ。つまり、すべては神が与えてくださり、神がこのわたしを肯定し、承認し、この私を用いて働いて下さったという感謝です。からし種一粒の信仰であればこそ、そのように謙虚に、心からの感謝を込めて言いうるのです。
「たえなるみめぐみ、日に日に受けつつ、みあとを行くこそこよなき幸なれ」(讃美歌461)。ただ神様こそが、日ごとにわたしに愛をもって伴い生きて働き、語りかけ、わたしを用いて下さる。その信頼に立ち、その中で日々を見つめ、他者を見つめ歩んでいくことこそ幸いであります。

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