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日本基督教団 札幌北光教会 日曜礼拝 木曜礼拝 牧師/指方信平、指方愛子

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■絶えず祈る
「イエスは、気を落とさずに絶えず祈らねばならないことを教えるために、弟子たちにたとえを話された」(1節)。
「絶えず祈らねばならない」とは、“祈らなくて良い”時はない、ということでしょう。わたしたちは放っておくと、たちまち祈りを失い、それゆえ神を見失い、恐れや落胆、後悔やつぶやき、誘惑の中に閉ざされ、終始してしまうという哀しい現実を露呈し始めます。「祈らない」ことが、ついに「祈れない」状態に至ってしまう。たった一度で「祈りが聴かれない」と諦めたり、初めから「意味がない」と思って祈ってしまう。絶え間なく繰り広げられている戦争の悲惨を前に、愛する者の突然の病と死、受け入れがたい不条理な現実を前に、祈りを失ってしまう。祈り続けることは戦いです。「お前の神はどこにいる」(詩編46)との声に心を騒がせ、神に失望させ、神から引き離し、祈りという行為からも引き離す、それこそが罪・悪の力の至上目的だからです。

■心の貧しき者の、からしだね一粒の 信仰をもって
主イエスは「まさにそこでこそ祈りなさい」「そこにこそあなたの希望が見出される、力が与えられる」と言われます。己の力が無力にも太刀打ちできず、もはや頼るべきものを何一つ持たない、望みなき貧しさの極みにおいて、「幸いなるかな、心の貧しき者」(マタイ5:3)と告げられます。もはや己の中に望なき、小さく貧しき者こそが、祈りの中で、そこに共におられる神を鮮やかに見出す者とされるからです。天地を造られ、すべてを治める神が、この無に等しいわたしの叫びを、ご自分のこととして受け止めて下さっている、人生の夜も朝も共におられ、共に倒れ、共に起き上がって下さる真実な神であることを知るのです。
「人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見出すだろうか」(8節)。主が見出そうとされる信仰は、「からし種一粒」です。誇るべき己の栄光など何も持たず、無力さ、小ささ、貧しさに立ち、余計なものが削ぎ落された「からしだね一粒」だからこそ、その人は、祈りの中で、すべてが主の恵み、主の業であることを分かるようになる、主の内にこそわたしはあり、主の内にこそすべてがある、と。

■速やかな神の最善
「神は、昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きを行わずに、彼らをいつまでもほうっておかれることがあろうか。言っておくが、神は速やかに裁いてくださる」(7節)。神は時に偏ったり歪んだわたしの思いを超えて、その真実と公正をもって裁いて下さる。ご自身の最善をなして下さる。それも速やかに。「速やか」とは、神はそれだけ「近い」ということを表わしてもいるでしょう。「わたしが担い、わたしが背負い、わたしが救い出す」(イザヤ書46:4)と言われる神は、速やかに、間近にその業を始めておられる。しかし、わたしが、そのことを知って恵みとして受け止めるには、時間が必要なのかもしれません。神の速やかさ、その近さは、人には長く遠く感じられるのかもしれません。今は分からない、しかしやがて、祈りの中でそのことを知るのです。
出エジプトの民は、約束の地に入るまで40年間を要しました。距離としては、さほどのものではないのに、なぜそれ程の時要したのでしょうか。申命記8章には「人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口からでるすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった。」とあります。まことに主を知るために、主の言葉によって生きるものとなるために、40年の旅を神が与え導いた。それはイスラエルの民にとって祈りによって神に出会っていく祈りの旅でありました。
北光教会では、12年前から会堂改修事業に取り組んでいます。10年の計画で終わらず、更に10年延長した。わたしはこれもどこかイスラエルの民の旅と似ていると思っています。これを単なる人間の打算で進めようとするならば、夜通し苦労して一匹も取れなかったペトロのように徒労に終わるでしょう。私たちが真に主を知る、主のみ言葉によって生きる群れとなるために主が与え、主が私たちの舟に乗り込んで導かれる時なのだと受け止めたい。

■「三日目の朝」を待ち望み
私たちは祈り続けて待ち望むのです。真実な方がなして下さった最善を見出すその時を。繰り返す戦争の悲劇、突然の病、闇に包まれ足元がぐらつくような苦悩の嵐の中で、主は「静まれ」「恐れるな」と伴い励まし導かれ続けます。
「我が神、我が神、なぜわたしをお見捨てになったのか」。主イエスの十字架の絶望と慟哭は、世で不条理に呻き、神はどこに!と叫ぶ人間の叫びを代表する者でした。しかし、神はその叫びを放置されはしません。三日目の朝、日曜日の朝、主イエスは復活された。ここにか表されている慰めと希望の福音を胸に、私たちは日曜日この場所に集い、そして共に祈るのです。主は三日目に甦られた。それは即座にでもなく、翌日でもなく、三日目。わたしたちもまた、その「三日目の朝」(ホセア書6:2)を待ち望みながら、絶えず祈るのです。

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