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■「へりくだるものは高められる」
「神様、罪人の私を憐れんでください」。徴税人は神殿から遠くに立ち、目を天に上げず、胸に手を打ちつけながら、神の憐れみを求めました。「罪人のわたしを」とは謙遜の言葉ではなく、自分自身の罪の問題に本当に苦しんでいるのです。それはただ徴税人としてこれまで犯した不正への罪悪感に苛まれているというよりも、自分は神様との関係から断ち切られているのではないか、見失われているのではないかという根本的な苦しみ、恐れ、渇きです。どんなに物質的に満たされていても、自分というものを保証してくれる何ものも持っていない渇き。自分というものがここにいることを顧み、憐れんでいただきたいと求めます。
もう一人ファリサイ派の人が祈っていました。「神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者ではなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します」。自分はあのような連中とは違う、あの徴税人のような金に汚い人間でもない、御前に正しく生きられていることを感謝します、と。自分が、神様の恵みによって日々生かされていることを感謝するならば、他人と比べる必要などないはずです。確かに彼は律法においては模範的に生きていたのでしょう。しかし、哀しいかな、この人はそのことによって自分と他者を比べ、他者を否定することでしか自分を主張できないのです。他者と比較して自らの正しさを神に主張するのです。彼はこうして、自分で自分のことを「義」と保証してしまっています。もはや神から義として頂く必要などなかったのです。だから、彼の祈りは神への「報告」でしかないのです。なんとも哀しい自己満足。
14節で「へりくだる者は高められる」とあります。この徴税人はひたすら自己否定し卑下し続けたのではないでしょう。神の前に謙るというのは、ただ自分を低めるということではなくて、「あなたが私の神でいてくださらなければ」という、自分の中には何も持たない「貧しさ」に立つということです。彼は、ただ神だけが私の全てをご存知で、神なしに自分という存在は、前も後も右も左も、未来も過去も現在もないのだという思いを持っていたのです。

■祈るということ
主イエスは、なんのためにこのようたとえ話をされているのかと言えば、18章1節で「気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるために」とあります。「絶えず祈る」ということは、「あなたの主は絶えずそこにおられる」ということでしょう。この神なしに、あなたは一時としてあなた自身ではありえないということです。
祈ったからといってただちに神の声が聴こえてくるわけではないかもしれません。そこには深い闇と沈黙が広がっているようにしか思えないかもしれません。どんなに祈っても何も応えてくれない、何も得られるものはないではないかと焦り、希望が見出せず、激しい渇きに襲われるかもしれません。でも主イエスはそこでなお祈り続けることを教えられます。絶えずそこにおられる主によってあなたがいるということに気づくために。
やがて、祈りの中で、どんなに自己主張をしてもそれは空しいこと、あるいはどんなに人と自分を比べてもそれが自分を保証するものではないことが分かってきます。自分というものの醜さが浮き彫りにもなり、また、自分は何も持っていない貧しく小さな者であることが分かってきます。そうやって余計なものが削ぎ落され、ただ一人「からしだね一粒」のようになっていく時、その人は、祈りの中でこそすべてが主の真実の内にあることが分かるようになる。それは自分で掴もう、掴めると思っている間には一向に気付くことのできない事実です。
「人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである」。これは次の19章で徴税人ザアカイに告げられた主イエスの言葉です。失われたものを捜す。祈るということ、それはわたしが神を探し求めること、神をつかみ取ることではない。わたしこそ呼ばれ、捜し出されている者であることを知ることです。

■義とされて帰る
このたとえ話の徴税人は、何の手ごたえも得られないまま、悲しみ、へとへとになって家に帰ったのではありません。ひたすら自己卑下し、己の罪深さを再確認して帰ったのではありません。「義とされて帰った」というのです。「義とされる」それは、神に肯定され、神に愛されている自分であることを知るということです。徴税人は、主に知られ、呼び掛けられ、見出されている自分を知った。神の内にこそ失われない自分があるという安堵に包まれたのです。
わたしたち、自分が祈ることができるということの恵みを再確認したいと思います。それは当たり前のことではないのです。「絶えず祈る」というのは「ねばならぬ」というような義務として課せられていることではありません。絶えず祈ることができる神がおられるということ、この方によって愛され生かされ治められている恵みへの気付きを促しているのです。そのような祈りの道を、イエス・キリストが切り開いて下さったことを覚えたいと思います。

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