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日本基督教団 札幌北光教会 日曜礼拝 木曜礼拝 牧師/指方信平、指方愛子

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【多重に響く聖書】
聖書はポリフォニック(多声)と言った人がいます。聖書には多くの声が響きあっているという意味です。たとえばヨーロッパの町に行くと、幾つもの教会から鳴る鐘の音が、ガランゴロンと多重に響くのを聴きます。それがポリフォニックです。聖書を読むと、この箇所ではこう言ってるけど、別の箇所では違うことを言っていることがよくあります。
聖書はすべての人に開かれています。専門的知識を持った人だけではなく誰もが豊かに楽しんで、時には大いに悩んで読む本だと思っています。牧師さんの読み解きを「絶対化」するのは危ないです。読む人の数だけ、聖書の解釈があります。それぞれに聖書と向き合って、私ならどう読むか?を分かち合い、新しい発見の喜びを多重に響かせ合えたらそこに、聖書を読む醍醐味や楽しさがあるのではないでしょうか。ただし、戦争や暴力や差別や人権侵害を正当化する読みときは論外ですね。

【逆説思考】
「逆説思考」(森下伸也著)と言う本の副題に「自分の頭をどう疑うか」とありまして、興味深く読みました。その本には、物事を逆説的に考えるとどうなるか、常識を疑ってみるところから新しい真実が見えてくるのではないか、と記されています。たとえば、「急がば回れ」といった諺、また「人間は悲しいから泣くのはない。泣くから悲しいのだ」という例をとりあげ、常識、決めつけ、思い込みを反転させることで見えてくる世界があると言いたいようです。なるほど、この「逆説思考」をヒントに聖書の読み解くと、どうなるのでしょうか。

【尊いものを求めて】
今日の聖書で、天の国のたとえとして2つの話の共通していることは宝と真珠はどちらも、高価なものでそれを見つけた人は、全財産を売り払ってそれらを手に入れるという内容です。この話は宝と真珠はイエス・キリストで、人間が全財産を売り払ってまでも、求めたい、かけがえのない存在であるという読み解きがなされてきました。それは真実です。今まで自分の中に、蓄えてきた様々な価値観や、大切だと思ってきたものが不要になりその結果、それまで蓄積した全財産を売り払うことなどけして惜しくはない。それほどまでに、イエス・キリストとの出会いが自分にとって決定的になっていく。パウロはまさにそれです。イエス・キリストという宝を見出したので、パウロの生き方がすっかり変わりました。讃美歌「キリストにはかえられません」は、まことの宝であるキリストを見出した人の喜びが歌われています。
けれども、発見者と真珠、宝を反転させるとどうなるでしょうか。高価な真珠と宝は人間、そして発見者はイエス・キリストと読むと、違った福音のメッセージが立ち上がってきます。私たちは尊いもの、価値あるものと読めます。実際、聖書には、人間の創造の時に極めて良いものとして造られたと、創世記には書かれてありますし、申命記には「主はすべての民の中からあなたを選び、ご自分の宝の民とされた」(7:6)とあります。旧約に繰り返し登場するテーマです。申命記では他に14:2,26:18にも出てまいります。また、イザヤ書43章には「わたしの目にはあなたは値高く,尊い、私はあなたを愛している」と記されています。つまり、神にとって人間は宝、良きもの、価値高いもの、最高傑作として造られた存在として描かれているのです。

【あなたたちこそ神の宝】
それがマタイ福音書によると、宝は畑の中に埋められていて誰も気づかず、深く掘らなければ発見できないけれども、宝は確かに存在している。そして宝を発見したイエス・キリストは大喜びする、価値ある私たちを見出し、すべてを投げ出すほど喜ばれる。また真珠商人のように、高価な真珠たった一つのために、全財産を売り払い、自分のものとされる。それほどまでに、イエスは私たちをかけがえなく、大切なものとして愛してくださる。たとえ、私たちが自らの値の高さ、尊さに気づかなくても、地中深くそれらは埋められているように見えても、イエスは私たちを見出し、その値や尊さを認めてくださると読めるのです。
ところが、私たちは自分の美しさ、尊さ、素晴らしさに気づかない時がありますし、他の人から低く見られたり、見向きもされない時があるかもしれません。けれども、神は誰が何と言おうと、私たちを良きものとして造られ、大事に思ってくださるよ、とイエスは語っているのです。私たちの価値は神様が決めるのです。神が私たちを尊び肯定するゆえに、私たちは自分自身や誰の命をも否定し軽んじてはならないのです。
このたとえ話を聞いた人たちは、時の権力支配者によって、命と尊厳が軽んじられたガリラヤの貧しい農民でありました。明日の希望も持てないような人々でしたが、イエスは「あなたたちこそ、神の宝なのだ」と宣言されました。そこに人々は生きる力と希望を抱いたのです。
イエスは私たちに近づいて、一人一人が神に愛され祝されている宝であることに気づかせてくれます。神の愛と祝福のゆえに私たちは、互いの命と尊厳を大切にして共に歩んでいきたいと願います。

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