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日本基督教団 札幌北光教会 日曜礼拝 木曜礼拝 牧師/指方信平、指方愛子

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■イエス・キリストの国
イエスのエルサレム入城の際、巡礼者たちは棕梠の葉をかかげて歓声を挙げました。
「ホサナ、主の名によって来られる方に、祝福があるよう、イスラエルの王に!」
既に最高法院の席で、祭司長たち、ファリサイ派たちは、イエスをローマ帝国の反逆者として、ローマの権力によって死刑に処すことを決めていました。こうしてエルサレムでイエスは捕えられ、その身柄は総督ピラトに託されました。
ピラトはイエスに問いました。「お前がユダヤ人の王なのか」「お前はいったい何をしたのか」。二人の会話はかみ合わず、ピラトは尋問するにも糸口を見つけられない様子です。なんとか言質を取ろうとするピラトに対して、イエスは言いました。
「わたしの国は、この世には属していない。もし、わたしの国がこの世に属していれば、わたしがユダヤ人に引き渡されないように、部下が(あなたの兵と)戦ったことだろう。しかし、実際、わたしの国はこの世には属していない」。
イエス・キリストの国、それは国と国、民と民とが裁き合い、憎み戦い合う国ではありません。敵と味方、善と悪、優と劣、上と下、同胞と異邦人、そのような二元論の線引き・選別によって自らを確立するような国ではないのです。この世界には、いつまでも断ち切ることができない憎しみと悲しみの連鎖があります、隔ての壁が心の中に強固にそびえ立っています。もはや解決不能なまでに複雑に、残酷に絡まり和解の糸口を見失った現実があります。ある人々の立場や論理、都合で命が蹂躙される現実、移民や難民を愛をもって受け入れ共に生きることを難しくさせる隔たれた現実があります。「わたしの国はそのような国ではないのだ」とイエスは言われるのです。
イエス・キリストというまことの王の職務は、国や民を隔て、線引き・選別することではなく、それら隔てられ、引き裂かれた者をつなぎ、癒し、結んでいく働きです。

■隔てなき神の愛にあって我ら一つ
〜聖なる公同の教会〜
コロナをきっかけとして、礼拝堂に集えない方のためにYouTube配信が始まりました。これはこれまでのある種の線引きを超えていくもので、教会・礼拝の本質を深く問うてきた、信仰と愛を深く問うてきたと思います。果たして、札幌北光教会はこの礼拝堂という空間にだけにあるのでしょうか。ここは世界とは隔絶された秘かな空間でしょうか。礼拝は自分たちと神様だけの関係の中で完結する時間でしょうか。否、私たちはここで神を見つめ、神のまなざしから他者を示されて遣わされていく群れです。ここに集うた者は、ここに集えないものを思い、働く務めがある。
果たして神様は、ここに集まれた人たちの賛美と祈りだけを聞かれるのか。神の祝福はここに集まれた人だけに注がれるのか。そのような線引きは本当に正しいか。もしそうなら、それこそ主イエスは「わたしの国はここには属さない」と言われるのではなかろうか。至るところで私たちはイエス・キリストの国とは何かを問われています。YouTube配信は、わたしたちのこれまでを問い直させる一つに過ぎません。
神の愛は、わたしとあの人、こことあそこ、あらゆる隔てを越えていきます。それどころか、神の愛は「死」という絶対的隔て・限界さえも超克したことがキリストの復活に示されたではありませんか。神の愛は、暗闇の中に座す人々のもとにこそ訪れたことがあの飼い葉桶の幼子に示されたではありませんか。私たちはどんな隔ても超えて共にあろう(インマヌエル)としてくださる神の愛を祝い讃え、なおそこで線引きを続けてしまうのでしょうか。わたしたちは時間・空間の中で目に見える教会ではなく、「聖なる公同の教会を信じる」群れです。それは「隔てのない神の愛のもとに一つの群れである」ということす。

■迫りくる真理
「わたしは真理について証しするために生まれ、そのために世に来た」とのイエスに対し、ピラトは「真理とは何か…」と問います。ヨハネ福音書において、イエスはこうも言われました。「真理はあなたたちを自由にする」と。あるいはまた「わたしは道であり、真理であり、命である」と。イエスご自身において現わされている真理。わたしたちを自由にする真理とは何か。真理は、それが歪むことも、取り消されることも、しぼむことも、覆されることもないがゆえに真理です。すなわち、それは神がどこまでも愛であるという事実に尽きます。如何なる権力をもってしても、死をもってしても覆すことのできないすべての者への神の愛。この事実を示し、これによって人を生かし、結ぶこと、それこそが王であるキリストの職務なのです。
「真理とは何か」。ピラトはこの問いの答えを見つけ出すことなく世を去ったのでしょうか。それは何も語られません。ピラトの問いは私たちに受け継がれています。「真理とは何か」。私たちはいつも問われています。あるいは教会はこのことを世に問い続けていくのです。あなたにとって、この世界にとって揺るがぬ唯一の真理とは何か。しかし、これは人間が自ら探究・研究し、答えを導きだす、獲得するものではありません。むしろザアカイのもとに主イエスが近づいて来たように、キリストが飼い葉桶に生まれこの世の只中に来られたように、真理の方から迫ってくるのです。この真理によって見つけ出されて包まれている私であることを知る時、その人は自由なものとして生き始めるのです。
「アドヴェント」、それは「何かが近づいてくる」「到来する」という意味です。私たちに迫ってくる神の愛という真理によって、隔てや選別ばかりのこの世を自由に生きていきたい。

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