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日本基督教団 札幌北光教会 日曜礼拝 木曜礼拝 牧師/指方信平、指方愛子

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■公然の秘密(open secret)
40年間の荒れ野の旅を仮庵(仮小屋)を建てながら進んだ先祖の労苦と神の導きを記念する祭、それが仮庵祭です。祭の期間にはユダヤ人は実際に仮小屋を建ててそこで過ごしました。その体験は人々の心に人生が旅であり、人の人生は仮小屋のように一時的で脆弱なものであること、しかし、すべてが神の御手の導きの中にあるということを想起させたことでしょう。
この仮庵祭の時、主イエスは神殿の境内で公然と自由に人々に教えを語られました。人々の中には、イエスこそがメシアであると考える者もあれば、ガリラヤ出身の男がメシアであるはずがないとイエスの身上だけを見て疑う者もいました。人々の見解が分かれ物議を醸していたその時、イエスは大声で宣言したのです。「わたしをお遣わしになった方は真実(=真理)であるが、あなたたちはその方を知らない」(28節)。イエスは「あなたたちは真理である神のことを何も知らない」と言い放ったのです。当然、人々は怒り心頭に発しイエスを捕えようとしましたが、捕まえることはできなかった。続く32節も、祭司長たちとファリサイ派の人々が下役を使ってイエスを捕まえようとしましたが、やはりイエスを捕まえることはできなかったのでした。それだけ主イエスの逃げ足がすこぶる速かったという話ではありません。ここにはいくら躍起になって掴もう、暴こうとしても、一向に真理を知ることができない人間の姿が言い表わされています。
「公然の秘密」とは、「表向きには一応秘密のこととされているが、実際には広く世間に知れ渡ってしまっている」という意味ですが、イエスという方については逆の意味での「公然の秘密」です。イエスは公然と人々の前に現れているけれども、そこに表れている真理は人々に全く秘められているのです。「あなたたちは、わたしを探しても見つけることができない」「わたしのいる所に、あなたたちは来ることができない」(34節)という言葉の意味はそういうことです。

■人が掴むことのできない真理
ヨハネによる福音書は、「神はその独り子をお与えになったほどに、世を愛された」(3章16節)ということを強調して語りました。実はピラトも問うた「真理とは何か」の答えが、そこではっきり語られているのです。イエスその方において神のこの世に対する愛が現われている。この愛こそが揺らぐことのない真理なのです。しかし、人々はそれを知ることができません。イエスの出自を問い、あるいはその自由な言動を問い、イエスとは何者か、力づくでイエスを掴もう、暴こうとするけれど、かえってそれは遠のき、秘められてしまうのです。
真理とは、人の思いによって捕えることができない、人が「神の愛とはこういうものだ」と説明し尽くすことも、計り知ることも決してできないということがここで語られているのです。真理は人が掴もうとすることによってではなく、反対に真理によって捕まえられることによってのみ明らかにされるからです。

■十字架そのものとしての世
確かに、イエスはこの後、ゲッセマネで人々に捕えられ、そして十字架に架けられるわけです。その意味では人々はイエスを捕まえたことになるでしょう。しかし、そうして人々がやっとイエスを捕まえ、ゴルゴタの十字架の上で晒し者とし、嘲笑うまさにそのところにおいて、「神はその独り子をお与えになったほど世を愛された」という真理が公然と示されていたことを人々は知ることはできなかったのです。
十字架はゴルゴタという「特定の場所」にあるのではなく、神がその独り子をお与えになった「この世こそが十字架そのもの」であります。この世界の様相は、嘲笑う者の声があり、恐れ苦しみ叫ぶ者の声があり、自らの正義を誇る者の声が溢れている、そんな“この世という十字架”に神は独り子をお与えになった。この真理は今日もなお「公然の秘密」であります。主が、この世の現実をその身に負い、磔にされるほど主が我らと共に在り、そして世を贖っておられるという真理があるのです。たとえ人がその真理をすっかり忘れていようとも、人の心が闇で覆われていようとも、真理はわたしたちと共にあり、真理が私たちを「わたしはあなたを見捨てない」と掴んでいるのです。
人々はイエスの出身を問い、その自由な言動を問い、イエスの本性を暴こうとしましたが、むしろ、私たちこそ主から本性を問われているのではないでしょうか。先ほども申しました。人は皆、仮小屋を建てて旅をしているようなものです。どんなに強がろうとその人自身は仮小屋のように脆弱なものでしかない。人生の旅はあっという間に過ぎ去っていくのです。そんなあなたとは一体何者なのか。あなたはどこから来て、どこへ行くのか。風のように彷徨い、死をもって霧のように消えうせるばかりなのか。そうではない。イエス・キリストこの方に現わされた完全な愛、とこしえの真理である愛、ここに自らを見出す、自らを託すのです。
「神はその独り子をお与えになったほどに世を愛された」。十字架で示された真理が今日も、このわたしを、この世を包んでいます。この事実こそが世の光、人生の灯火として私たちの今日を、明日を、見放すことなく照らし導くのです。

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