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日本基督教団 札幌北光教会 日曜礼拝 木曜礼拝 牧師/指方信平、指方愛子

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■「わたしは人間による証しは受けない」(34節)。
イエスが誰であるかを証しするのは、イエス自身でもなければ、他のどの人間でもない、ただ神ご自身だけがイエスを証しされるというのです。この言葉から思い起こす一つのエピソードがあります。ある神学者が大学で講義をしていた時、学生が聖書を片手で握りしめて大声で叫びました。「先生、あなたはこれが神の言葉であると信じていらっしゃるんですか?」。彼はその学生に言いました。「君が自分でつかむことができると思っている内は、そうではないでしょうね。しかし聖書が君をつかんだとき、そうなるのです」。
自分で掴める、自分で分かると思っている内は、いつまでたっても、聖書は聖書とはなりません。このことは、聖書を説き明かす説教者が肝に銘じるべきことです。説教は「人間による証し」ではないからです。神は確かに人間を器として用いられるけれど、御言葉を本当に語るのは神ご自身です。毎週、礼拝が始まる10分前に、控室でその日の司式者が一言祈ります。説教者と会衆のために祈ってくださるのです。「牧師の口を通して神が豊かに語られますように、会衆が豊かに聴くことができますように」と。人間に過ぎない者が、神について直接何かを語ることなどできません。人間に過ぎない者が神の計り知れない恵みをどれだけ語れるというのでしょう。それほど無謀で、また不遜なことはありません。ただ神ご自身の働きに拠らなければ、イエスという方を本当に伝え、そこにある神の恵みを本当に伝えることはできないし、またそれを聴いて信じることもできません。
神の絶対の愛、それもなんの対価も必要としない無条件の愛、それはそれによって捕まえられ、飲み込まれた人のみが知ることのできる真理です。

■それぞれの真理
先週、お二人の方の葬儀がこの場所で行われました。お二人とも、長くこの教会で過ごされた私たちにとって大きな存在でした。相馬さんは、5年前の夕礼拝の証しの時に、復活のイエスが「ガリラヤで会おう」と弟子たちに伝えたことについて、こういうことを言われました。「私の歩んで来た道筋のすべてがガリラヤであり、その日常の場面ゝでイエスは待っておられた」。「私に残されたこの世の時間はさほど多くはないが、主は言われる。『恐れるな、わたしはいつもあなたと共にいる』。その確信を胸に今日、そして許されるならば明日も生きようと思う」。ガリラヤで日常を過ごしたイエス、ガリラヤで人々と共に生きたイエス、相馬さんは自分が生きてきたすべての日々が復活の主と共にあり、主に招かれ、導かれたガリラヤであったと。これは相馬さんにとっての揺るがぬ真理でした。
また、橋さんは、「わたしは生きるにしても、死ぬるにしても、主のものである」というローマの信徒への手紙を愛唱聖句とされていました。わたしという存在がその生も死も全く主のものとされている、キリストは、このわたしを生きる時も、死ぬる時もご自身のものとして下さっている、決して、私を見失わず、愛をもって赦しをもって捉えていて下さる。お二人とも神ご自身の働きの中で、主イエスに出会い、真理を見つめ、真理に生かされたて歩まれた方でした。

■「わたしは人からの誉れは受けない」(41節)
人間が人間に誉れ・名誉を与えることがあります。またそのような名誉を欲する人も多いことでしょう。しかし、その名誉は何かあれば損なわれ、はく奪され、何の価値もないものになったりもします。主イエスもまた人々から歓迎されてエルサレムに入られたかと思えば、数日後には罵られながら十字架を背負わされたのです。そのような人による誉れなど要らないとイエスは言われます。それは主イエスがただそうおっしゃっているということではなく、私たちの在り様を問うているのではないでしょうか。あなたがたは一体何を真の誉れとして生きているのか?と。
44節「互いに相手からの誉れは受けるのに、唯一の神からの誉れは求めようとしない」。
神からの誉れ、それは目には見えませんし、それが世的な地位を保証してくれたり、この世的な賞賛と利益をもたらしてくれるものでもありません。でも、これこそが私たちにとってただ一つのそして不可欠な誉れであることを知れ、というのです。

■神からの誉れを見つめて
飼い葉桶に眠る幼子、十字架に挙げられた罪人、その姿にはこの世的な誉れは微塵もありません。むしろこの世から忘れられ、見捨てられた惨め極まりない姿。主イエスは、そのように生まれ、死なれた。でも、そこにはこの世に生きるすべての人に与えられたまことの誉れ示されていました。神がその独り子をお与えになったほどに世を、このわたしを愛して下さった。決して見捨てず、ご自身のものとして下さり、今日を明日を共にして下さっている。この誉れを置いて他に何があなたの誇りであろうか。私たちも、生まれた時があり、死ぬる時があります。そこで初めから終わりまで一貫しているただ一つの誉れ、誰も奪い取ることのできない永遠の誉れがあります。私たちの内に輝く神からの真の誉れを、この蝋燭に見つめたいと思います。

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