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日本基督教団 札幌北光教会 日曜礼拝 木曜礼拝 牧師/指方信平、指方愛子

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>札幌北光教会/トップ  >牧師紹介・説教  >ヨハネ−荒野で叫ぶ声−


■荒れ野で叫ぶ「声」
イスラエルの民は、500年以上に亘り大国の支配を受け続けてきました。民はまるで羊飼いを失った羊のように飢え、荒れ果てた土地のように渇いていました。神は先祖アブラハムに子孫の繁栄と祝福を約束されたはずなのに、一体なぜこのようなことになってしまったのか、なぜ我々が苦しまなければならないのか。彼らが辿り着いた答えは、自らの罪の現実でありました。我々は神に見捨てられたのではなく、我々こそが神を捨て、神に背いてしまったのだと。けれども神は、このような罪に満ちた我らを見捨てず、憐れみをもって導いて下さること、やがては主なる神がこの民の罪を赦し、救い出して下さる時が訪れるということを待ち望み続けたのです。
「神の国は近づいた!」「悔い改めよ!」「主の道をまっすぐにせよ!」、主の到来を告げ知らせた洗礼者ヨハネ。大勢のユダヤ人がヨハネのもと集まり、罪を告白し、悔い改めの洗礼を受けました。その様はリバイバルのようです。
人々の中には、このヨハネこそ、来るべきメシアなのではないかと考えるものもいたようですが、ヨハネはこれをきっぱりと否定します。ヨハネは預言者イザヤの言葉を用いてこう答えるのです。「わたしは荒れ野で叫ぶ声である」。自分は「声」なのだ。声というものは、一度語られると消えていくべきものです。つまり、ヨハネは、自分という者は、人々が待ち望んできた救い主到来の約束の成就を告げ知らせたならば、速やかに去っていくべき存在であるということを言っているのです。

■主の道をまっすぐにせよ
事実、ヨハネは去っていきました。ヘロデによって捕えられ、権力者の横暴によってその命は奪われてしまった。けれども、その声は、人から人へとこだまし広がっていき、そして、時を超えて今日私たちのところにまで響いています。「主の道をまっすぐにせよ」と。
ヨハネの言葉は、楽しいクリスマスを前にちくりと痛いものがあります。しかし、その言葉を脇においたままクリスマスは訪れません。ヨハネ福音書は「神はその独り子をお与えになったほどに世を愛された」という真理を語りますが、なぜ神はそうされたのか、その原因、理由を見つめなければなりません。神がその独り子を世に与えた出来事の背景に広がる世の罪の現実、これに対する神の痛みを見つめないまま、ただクリスマスの美しさ、温かさに浸り、これを一過性のイベントにしてしまうわけにはいかないでしょう。
「主の道を真っ直ぐにせよ」とのヨハネの声を聴いて、世の人々は皆すっかり悔い改めたでしょうか。そうしてまっすぐになったところでキリストはやって来られたでしょうか。むしろ、この世界は2000年経って改善されるどころか、どこまでも歪み、絡まり、解決不能なまで複雑になっています。人間の傲慢な野心が跋扈し、私利私欲が暗躍し、政治は腐敗し、命が蹂躙されている現実がどこを見てもあります。「荒れ野」とは、まさに今この荒涼たる時代のことであります。
「主の道をまっすぐにせよ」。しかし、私たちにはそれが出来ません。世はキリストをお迎えするために道を整えることも、悔い改めることもなかったのです。今だにこの世界は、どこを見ても歪んでしまっている、人と人をつなぐ道はいたるところで分断され、荒れ果てている。主を拒み続けるような世です。この罪の現実に私たちは無力であり、ただ嘆くほかないかのようです。しかし、主は、そんな歪みきった罪の世を裁き、見捨てられたのではなく、ここに来てくださった。ただ一方的な愛を赦しを決断してこの世に来てくださった。十字架そのもののような悲惨な様相であるこの世にご自身を捧げて下さった。釘で打たれ磔にされるほどこの世をご自身と一つとしてくださり担って下さった。飼い葉桶での誕生、十字架上での惨めな刑死。「福音」という言葉から最もかけ離れたような出来事の中に、神はご自身を表されました。しかし、最も福音からかけ離れたこの現実さえ、まさにそこが神のおられるところであるという福音があります。この福音によって、世は世であることを、私は私であることを良しとされ、今日を生かされているのです。

■「キリスト・イエスは、『罪人を救うために世に来られた』という言葉は真実であり、そのまま受け入れるに値します」(テモテT  1:15)
「主の道を真っ直ぐにせよ」と言われても、私たちがそう取り繕って真っ直ぐに見せかけることではありません。この歪み、荒み切った世、悲しみと憎しみを際限なく繰り返すこの世、この人生に、主が愛と慰めをもって来て下さった、どこまでも共にいて下さるのだという恵みを、恵みとしてそのままに受け止めさせて頂くということです。
そして主に愛された恵みを力として立ちあがり、新たな道を選び取っていくものとされるのです。主の限りない愛と忍耐を信じつつ、なおも主が求めておられる世界を待ち望み、作り出していくのです。
再びクリスマスがやってきます。人となってこの世に表された神の愛に感謝しつつ、この愛がやがて成し遂げて下さる世を待ち望み、そのために日々用いられていく思いを共に新たにしたいと願います。

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