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日本基督教団 札幌北光教会 日曜礼拝 木曜礼拝 牧師/指方信平、指方愛子

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■「初めに言があった」「万物は言によって成った」
「言」(現存する最古の日本語訳聖書では「カシコイモノ」)とは、そこに「人格」「意志」があることを示唆します。単なる原理・法則ではなく、神の意志・人格が一切の初めにあった、そして被造物はすべて、この「言」によって存在を与えられたのだと告白するのです。そして、わたしたちにとって重要なのが4節です。

■「言の内に命があった。命は人間を 照らす光であった」(4節)
言(神の思い)、そこに命があるというのです。「どんな人にも命がある。命が一番大切だ」とは、すべての人が認める事実ですが、肉体の内にそれがあるわけではない。「言の内に」「神の思い」にこそ、それはあるのです。創世記2章に「主なる神は土の塵で人を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった」とあります。
神が「命の息」を吹き入れた、それは「神の思い」が吹き入れられたことと等しいことです。それによって人は「生きる者」となったのです。「わたしは生きている」「命がある」と言えるのは、そこに神の思いがあるからに他なりません。そうでなければ、その人は、どこまでもただの「土くれ」「肉の塊」のようでしかないのです。神の言にこそ命がある、神の思いこそが人の命そのものであり、人を存在足らしめる光なのです。すべての存在がこの「言」を根拠としているのです。

■「闇はこれ(光)に勝たなかった」
この真理は、何ものによっても妨げたり、歪曲することはできません。5節の「光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった」という言葉は、そのことを語っています。「暗闇は光を理解しなかった」(5節)は、口語訳では「闇はこれに勝たなかった」でした。直訳すれば、「暗闇は光を捕らえられなかった」です。つまり、暗闇はこの光を捕え、抑え込むことはできないということです(11/26、12/3説教参照)。人に命を与え、存在を与える神の思いは、どんな闇も抑え込むことができない、すべての人にとっての光です。

■言は肉となって、わたしたちの間に 宿られた
そして、この光が世に現わされた、「言は肉となった」ことを私たちは今日このクリスマスにおいて共に記念するのです。「光あれ」と告げてこの世界を造り、命を造られた神の言が、受肉して目に見える現実、出来事となった。イエス・キリストはそういうお方なのだということをヨハネに福音書は語っているのです。キリスト、この方において、わたしたちの命そのものであり、存在の光であるところの神の言・神の思いがはっきりと示されたのです。イエス・キリストの地上での言葉と業、十字架の死と復活に至るその生涯を通して、神はあなたへの思いを、愛をはっきりと現わされたのです。

■「独り子」キリスト
キリストが「独り子」であるということは「一人っ子」を意味しません。神は、イエス・キリストこの一点において、ご自身の愛を誤魔化しなく、余すところなく、すべて表されたということです。わたしたちがもはや、あっちやこっちやそっちやとキョロキョロと落ち着かず惑い、闇の中、頼れるものを手探りであれでもないこれでもないと、意味もなく心許なく彷徨い生きるのではなく、この揺るがぬ一点において神の愛を確かめて、この愛に根差して生きるものとなるためです。

■光あれ−創造の言−
イエス・キリストの到来。神の言の「受肉」。それは「すべての人を照らす」(9節)出来事です。神は、イエス・キリストにおいて、「光あれ!」とすべての者に告げ、私たちの心に神の子としての尊さ、喜び、希望を「創造」されるのです。そして、神は、私たちが自分が愛された者であることを知り、互いに喜びも痛みも分かち合って生きる者となっていくことを通して平和を「創造」されるのです。なおもこの世は暗闇のようです。闇の業が溢れています。しかし、暗闇は光を抑え込むことは出来ない。光は暗闇の中で輝いているのです。わたしたちが生きるこの現実のど真ん中に確かに輝いているのです。どんなに暗き世であろうと、それに対して数も力もわずかな者であろうとも、この変わらぬ一点の光を信じ見つめ続け、この一点から隣人へと愛によって歩みを起こしていくこと、それが今日、クリスマスのまことの喜びを知った私たちに与えられているこの世での大切な役目です。

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