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日本基督教団 札幌北光教会 日曜礼拝 木曜礼拝 牧師/指方信平、指方愛子

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◆「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」
洗礼者ヨハネはそう主イエスという方を紹介しました。  創世記22章の物語を思い起こします。アブラハムが神の命令に従って独り子イサクを奉献しようとする場面です。いざ薪の上で息子を屠ろうとしたアブラハムに神は言いました
「その子に手を下すな。あなたが神を畏れる者であることが、今、分かった。あなたは自分の独り子である息子すら、わたしに捧げることを惜しまなかった」。
振り降ろす手を止めたアブラハムは周囲に目を凝らしました。茂みに角を取られた一匹の羊を見つけ、この羊を自分の息子の身代わりに神に捧げることにしたのでした。アブラハムはこの出来事の記念としてその地を「ヤーウェ・イルエ(主の山に備えあり)」と名付けたのでした。ヨハネによる福音書は、この物語を一つのモチーフとし、主イエスを、神の「独り子」「世の罪を取り除く神の小羊」と呼びました。
イスラエルの民は、荒れ野を旅する幕屋の時代から様々な祭儀の度に犠牲の羊を神に捧げてきました。毎日朝夕に捧げる犠牲として(出エジプト29:38)、過越祭の捧げ物として、初子を贖う捧げ物として、犯した罪の賠償の捧げ物として。羊の犠牲によって神との交わりが保たれると信じてきたのです。しかし、洗礼者ヨハネは、イエス・キリストこそ、神が世の罪を取り除くために備えてくださった一匹の決定的な犠牲の小羊なのだと告げたのです。 洗礼者ヨハネは、「見よ」と告げます。アブラハムが目を凝らして一匹の羊を見つけたように、「目を良く凝らしてこの人を見よ、この人にこそ、あなたの完全な赦しが、あなたの解放が、あなたの命が、あなたの光がある」とそう主イエスを指し示すのです。

◆犠牲の終わり
毎日犠牲の羊を捧げてきたイスラエルにとって、主イエスの到来とその十字架の死は、いわば「犠牲の終わり」を告げる出来事でありました。もっと言うならば、キリストの到来、その十字架の死の出来事は、「もう殺してはならない」「もうどんな犠牲も要らない」という神のメッセージであると言えるのではないでしょうか。
戦争や事故で亡くなった人のことを、しばしば「犠牲者」と表現することに違和感を覚える人は私だけでないでしょう。それがどこか傍観者的であったり、実は自分が加害者側にあるかもしれないという視点を欠く場合も見受けられるのです。果たして亡くなったその人々は無謀で悲惨な戦争や事故がこれ以上繰り返されないために身を捧げた「犠牲者」なのか。それならば一体何人の命が犠牲として捧げられたら戦争や事故は無くなるというのか。
ウクライナで、ガザ地区で、無差別的な虐殺が繰り広げられ、恐怖と絶望に陥れています。亡くなった何万、何十万という人々は「犠牲者」でしょうか。神様はどう思われるでしょうか。「もう沢山だ」「もう犠牲など必要ない」「いますぐやめよ」「殺すなかれ」と言われるのではないでしょうか。
「もしいけにえがあなたに喜ばれ、焼き尽くす献げ物がみ旨にかなうのなら、わたしはそれをささげます。しかし、神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。打ち砕かれ悔いる心を神よ、あなたは侮られません」(詩編51)
「この人を見よ」と洗礼者ヨハネはキリストを指し示します。ここに犠牲の終わりは告げられ、平和の始まりが告げられたのです。神は独り子の命をもって、この世に赦しと愛をとこしえに決断されました。キリストのゆえに神は、敵意という隔ての壁を越えて対立する両者を、すべての者をご自身の子として慈しんでおられる。その恵みと憐れみをあなたがたは目を凝らして良く「見よ」と告げられています。

◆聖霊の洗礼
ヨハネは、主イエスを「世の罪を取り除く神の小羊」と呼ぶと共に、この方が「聖霊によって洗礼を授ける方である」と語りました。「聖霊による洗礼」とは何でしょうか。水の洗礼が、人間の側の神に対する悔い改めの洗礼であるならば、聖霊による洗礼は、神の側から人間に与えられる恵みです。聖霊の中に沈められる、聖霊で満たされる出来事です。神の愛、光、命、真実によって人を満たす、全く神の内に、神の子としてその人を生かす恵みです。水ならば乾燥もしますが、聖霊は「気づいたら乾燥して無くなっていた」などということはありません。それは一時的な潤いではなく永続する恵み、いつまでも現在進行形なのです。これまで喜びの日も悲しみの日も、主を信じられないという時も、神の真実と愛が私を満たしてくださっていたということ、そしてこれからもとこしえに主が共にあって導きゆかれるのです。聖霊に満たされ、神の子として新たに生かされる、その恵みを信じて教会は水と霊による洗礼を授け続けるのです。

◆主の年2024年
新しい年が始まりました。どんな年になるのか、わたしたちはまだ知る由もない出来事にいろいろと心騒がせることがあると思います。暗闇のような悲しみに満ちた世にあって、目先のあれやこれやを頼りにしようとする、様々にしるしを求めることがあると思います。しかし、洗礼者ヨハネが「見よ」と告げたキリストというしるしを見つめたい。また、聖霊に満たされ、主の限りない愛の中で新しく生きる者とされた者として、「互いに愛しあいなさい」との主の言葉に押し出されて歩みたい。この主の言葉こそが、この憎しみと疑いと悲しみの闇の中で、灯となって私たちを導くのです。

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