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日本基督教団 札幌北光教会 日曜礼拝 木曜礼拝 牧師/指方信平、指方愛子

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■見つめるイエス
アンデレは、イエスの「来なさい」との招きに従い、その日、イエスのもとに泊まりました。聖書はわざわざそれを「午後4時頃のことである」と記します。それは主イエスの最初の弟子が生まれた決定的瞬間であるからです。アンデレがその後取った行動は、兄弟のシモン・ペトロをイエスのもとに連れてくるということでした。思いますに、教会はこのようにして広がっていったのです。アンデレが兄弟ペトロを主イエスの所に連れて来たように、この教会にも家族や友人の紹介によって教会に初めて来られたという方が少なからずおられます。なぜ、その人は友人や家族に教会のことを紹介し、お招きしたのでしょうか。教会という場所が楽しいから、パイプオルガンの音色が美しいから、そういう付随的なものもあるかもしれませんが、やはり第一に「この人にも神様の愛を知って欲しい」「神様にこの人のことも知って欲しい」という願いがあってのことでしょう。42節で主イエスは連れてこられたペトロを「見つめ」ました。単に目で見る・眺めるということではなく、その存在を深く知って下さったということです。イエスがペトロを見つめたのは、この時だけではありません。彼が「イエスなど知らない」と三度否定した時も、イエスの眼差しがそこに注がれていました。私たちは主イエスを見つめ続けることはできません。目を背け、主を否みたくなるような辛い時もあります。しかし、そこでも主は確かに見つめておられます。誰にとっても信仰の喜び、力というものは、自分が主によって見つめられ、知られているという気付きの中に生じるものです。

■いちじくの木の下で
既に主イエスに出会っていたフィリポは、ナタナエルに言いました。「わたしたちは、モーセが律法に記し、預言者たちも書いている方に出会った。それはナザレの人で、ヨセフの子イエスだ」。しかし、ナタナエルは「ナザレから何か良いものが出るだろうか」と懐疑的だったのです。しかし、フィリポはナタナエルと議論するでもなく、ただ一言「来て、見なさい」と言うのです。このフィリポのひと言が重要なきっかけとなり、ナタナエルは主イエスに出会い、そして「あなたは神の子です」(49節)と告白するという、実に意外な展開につながっていくのでした。
やってきたナタナエルを見て、主イエスは言いました。「見なさい。まことのイスラエル人だ。この人には偽りがない」。ナタナエルが「どうしてわたしのことを知っておられるのですか」と尋ねると、主イエスは「わたしは、あなたがフィリポから話しかけられる前に、いちじくの木の下にいるのを見た」と言われました。
ユダヤ人にとっていちじくの木の下は、祈りと黙想の場であり、あるいはこどもたちに聖書の言葉を教える場所でした。ナタナエルは、いちじくの木の下で一人祈り、黙想していたのではないでしょうか。ただ一人、真剣に神に向かい、救いの到来を求め、待ち望んでいたのではないでしょうか。そんな彼のことを主イエスは見つめておられた。ナタナエルは、自分が知るよりも先に、主によって知られていることを知った時、この方に従うものとされていきました。

■「あなたがわたしを選んだのではない。 わたしがあなたを選んだのだ」
(ヨハネ福音書15章)
主に出会ったナタナエルとは私たちのことに他なりません。一人祈る時、答えを求め、渇きを覚える時、そのいちじくの木の下にいる私を知って下さっている主がおられます。
数年前の夏、Iさんから「年の離れた姉のいる施設にいって一緒に讃美歌を歌って欲しい」と依頼され、一緒に伺いました。その方は90歳を過ぎておられましたが、讃美歌をいくつかご存知でいらっしゃって、数曲を歌いました。数日後、Iさんから大変驚いた様子で電話がありました。お姉様が「洗礼を受けたい」と言っているとのこと、「実はずっと以前から洗礼を受けたいと思っていた」という話しでした。アンデレやフィリポのように、「姉を主のもとに導きたい」というIさんの思いに先立って、主はお姉様を知っていて下さった。いちじくの木の下にいたナタナエルのように、施設でお過ごしであったお姉様を主は知っていて下さった。そして、あのような讃美歌を共に歌う時を備え、導いて下さっていたのだと思わされるような出来事でした。そして翌月を洗礼を受け、その翌月に召されてゆかれたのでした。
今日、この礼拝堂という場所は、「いちじくの木の下」です。「来て、見よ」その言葉に招かれて集められている私たちが、既に主によって深く知られ、愛されている。生においても、死においても、主のまなざしが注がれている。その主に出会わされる時、「あなたは神の子です」その告白が与えられるのです。

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